早川電力との合併
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1918年(大正7年)6月、山梨県南部を流れる富士川支流早川を開発する目的で早川電力株式会社という電力会社が設立された。同社は設立時大手製紙会社富士製紙の傍系会社であったが、間もなくその傘下を離れる。そして独立した電力会社としての地歩を固めるべくまず日英水電の合併に踏み切った。 1919年(大正8年)10月18日、早川電力は臨時株主総会にて日英水電の合併を決議した。合併比率は1対1の対等合併で、日英水電の株主には持株1株につき早川電力の株式1株が交付されるとともに、別途現金40円も交付される。加えて30万円の解散手当も支払われることから、払込資本金300万円の日英水電を570万円に評価して事業を継承するという形である。この合併は、豊富な水利権を持つが確実な供給先を持たない早川電力と、今後も需要増加が見込まれる有利な供給区域を持ちながらも白瀬発電所を最後に開発計画が途切れる日英水電の長短相補うものである。加えて早川電力には実際に事業を持つことで建設利息配当の長期化を回避できるという利益もあった。 早川電力の動きの一方、浜松市当局でも日英水電が経営する市内の電灯電力供給事業を80万円で買収(市営化)するという動きをみせた。1919年10月16日に浜松市会にて電気事業市営の議決がなされるが、市の提示価格が低いため交渉は進展せず、結局関屋貞三郎静岡県知事の調停で市営化は断念された。そして12月16日の市会で市営決議が取り消されるとともに早川電力と日英水電の合併が承認された。合併は翌1920年2月4日付で逓信省からの合併認可が下り、同年3月15日早川電力側にて合併報告総会が開かれて合併手続きが完了、同日をもって日英水電は解散した。 翌1921年(大正10年)7月、早川電力は日英水力電気発起人が保持していた大井川の水利権ならびに東京市とその周辺への供給権を譲り受けた。早川電力の日英水電合併は両社の利害が一致した結果であるとともに、この日英水力電気からの事業権譲り受けに関する前提条件であったともみられている。
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早川電力との合併
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天竜電力に先駆けて浜松で開業した浜松電灯は、1911年に東京の日英水電へと吸収された。日英水電は翌1912年大井川に小山発電所(出力1,400キロワット)を建設し、遠江地方に広く送電し始める。この日英水電も1920年(大正9年)3月、同じく東京の早川電力に合併された。この早川電力は山梨県を流れる富士川水系の河川早川を開発すべく1918年6月に設立された電力会社である。 191年12月24日、その早川電力では株主総会にて天竜電力ならびに福田電力・東遠電気の合併を決した。天竜電力と同時の合併が決まった2社はどちらも遠江地方を供給区域としていた小規模事業者である。天竜電力に関する合併条件は、天竜電力の資本金100万円(うち58万円払込)に対し早川電力は355万円(うち124万2500円払込)を増資し、天竜電力の50円払込済株式6000株には早川電力の17円50銭払込新株3万6000株、20円払込株式1万4000株には17円50銭払込新株3万5000株を割り当てるというもの。従って合併比率は1対2余りと天竜電力に有利なものとなるが、これは当時の業績の比較に基づく。翌1922年(大正11年)2月25日、逓信省から早川電力と天竜電力・福田電力・東遠電気について合併認可が下り、次いで4月12日早川電力側にて3社に関する合併報告総会が開かれて合併手続きが完了、同日をもって天竜電力は解散した。 日英水電に加えて天竜電力ほか2社を吸収して静岡県西部での勢力を拡大した早川電力は、1924年(大正13年)3月、中京地方を地盤とする大手電力会社東邦電力の傘下に入った。さらに翌1925年(大正14年)3月には同じ東邦電力系列の群馬電力と合併し東京電力に発展、東京進出を積極化するものの、1928年(昭和3年)4月関東地方を地盤とする東京電灯に合併された。これらの結果、旧天竜電力区域も東京電灯に引き継がれている。なお旧天竜電力の発電所も継承されているが、1940年代までに全廃されており現存するものはない。
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