日本国憲法への移行
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「衆議院議員総選挙」の記事における「日本国憲法への移行」の解説
1946年(昭和21年)4月10日の第22回衆議院議員総選挙が、大日本帝国憲法下での最後の衆議院議員総選挙となり、1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行された。 1947年(昭和22年)4月25日の第23回衆議院議員総選挙は日本国憲法下での初の衆議院議員総選挙となったが、この選挙は衆議院議員選挙法の下で行われた。 なお、その後、1950年(昭和25年)の公職選挙法(昭和25年4月15日法律第100号)施行により、衆議院議員選挙法は廃止となった。
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日本国憲法への移行
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「大日本帝国憲法」の記事における「日本国憲法への移行」の解説
1945年(昭和20年)8月、日本政府がポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた。同宣言には、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」、「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」などと定められたため、ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、大日本帝国憲法の改正を日本政府に求めた。政府は内閣の下に憲法問題調査委員会(委員長・松本烝治国務大臣、松本委員会)を設置して、憲法問題の審議にあたらせた。政府は松本委員会が要綱化した案を元に閣議で審議し、1946年(昭和21年)2月8日に「憲法改正要綱(松本試案)」として総司令部に提出した。この間、国民の間でも憲法改正論議は高まり、さまざまな憲法改正案が発表された。 政府による「松本試案」の提出に先立ち、2月1日付『毎日新聞』が「松本委員会試案」なるものをスクープした。スクープされたものは松本委員会の委員の一人である宮澤俊義が作成した試案であって、松本試案とは異なるものであった。そのため、政府もその報道された内容が政府案と異なるとする声明を発表した。しかし、総司令部はその記事内容が真正な松本委員会案であると判断した。総司令部はその記事に示された「松本委員会試案」は受け入れがたいと考え、自ら憲法改正案を作成し、日本政府に提示することを決定した。総司令部は、2月3日から13日にかけて、いわゆる「マッカーサー草案」をまとめた。 2月13日、総司令部は、松本国務大臣と吉田茂首相に対し、2月8日に提出された「松本試案」に対する回答として、「マッカーサー草案」を手渡した。政府は「松本試案」の再考を求めたもののいれられず、あらためて、「マッカーサー草案」に基づいて検討し直し、「日本側草案(3月2日案)」を作成した。政府は総司令部と折衝の上、3月6日に「憲法改正草案要綱(3月6日案)」を政府案として国民に公表した。「憲法改正草案」をみると、改め文方式ではなく、新法制定形式を採用しているようである。新法を制定し、旧法を廃止する場合には、附則において「○○法は、廃止する。」と記述しなければならないが、本草案中には「大日本帝国憲法は、廃止する。」という文言はない。 この政府案を元に国民の間で広く議論が行われ、4月10日には第22回衆議院議員総選挙が行われた(もっとも、国民の最大の関心は新憲法より生活の安定にあった)。政府は、選挙が終了した4月17日に、要綱を条文化した「憲法改正草案」を公表した。4月22日から枢密院において憲法改正案が審査が開始され、6月8日に可決された。6月20日、政府は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に基づき、憲法改正案を衆議院に提出した。6月25日から衆議院において審議が開始され、若干の修正が加えられた後、8月24日に可決された。続けて、8月26日から貴族院において審議が開始され、ここでも若干の修正が加えられた後、10月6日に可決された。翌7日、衆議院は貴族院の修正に同意し、帝国議会での審議は結了した。憲法改正案はふたたび枢密院にはかられ、10月29日に可決された。天皇の裁可を経て、11月3日、大日本帝国憲法は改正され日本国憲法として公布され、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
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