日本の鶏卵食
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 02:27 UTC 版)
「日本の獣肉食の歴史」も参照 日本列島では弥生時代に家畜化されたニワトリが伝来する。鶏卵は「鶏子」と呼ばれ、『日本書紀』の冒頭では宇宙の原初状態を鶏卵に喩えている。古代の殺生禁断令では、鶏肉とともに鶏卵も避けるべきものとされた。それらの禁令は直接鶏卵食を禁ずるものではなかったが、因果応報譚や地獄を用いた仏教界からの説諭や圧力によって鶏卵食への忌避感情が浸透していった。それでも養鶏が絶えることはなく、『源平盛衰記』では七条信隆の飼っていた4000-5000羽の鶏が田畑を荒らして打ち殺された話があり、室町時代の禅僧・季弘大叔は日記『蔗軒日録』で鶏を飼う他の僧侶を説教したと嘆いている。 戦国時代には西日本へポルトガル人が来航し、鶏肉食とともにカステラやボーロのような鶏卵を用いた南蛮菓子を伝え、一部に受容された。 江戸時代初期には西日本の一部で鶏卵が食され、寛永4年(1627年)には平戸のオランダ商館長(カピタン)の江戸参府の際に鶏卵が用意されている。鶏卵を用いた料理としては寛永20年(1643年)に成立した料理書『料理物語』では「卵ふわふわ」と呼ばれる料理が記され、寛永3年(1626年)に後水尾天皇が二条城へ行幸した際に饗応されたという。17世紀の半ばになると、栄養価の高さや便利さにより急速に庶民にも浸透した。『本朝食鑑』(1697年)や井原西鶴の好色物に見られるように強精食品としての効能も期待されていた。吉原遊廓近辺では、自身で消費する滋養薬(栄養ドリンク)や遊女への贈り物として盛んに販売された。1個20文、現在で言うところの[いつの?]400-500円相当の値換算であり、自前で養鶏する農家以外の当時の下町庶民にとっては高嶺の花の食材であり、容易に入手可能な代物ではなかった。 西日本では萩藩主・毛利家や佐賀藩主・鍋島家、薩摩藩主・島津家といった西日本の大名家の行事において鶏卵料理や菓子が出されている。幕末には天保9年(1838年)の鍋島藩『御次日記』において、客人に饗応された献立の中に生卵が記されている。生卵に関しては近代には1872年(明治5年)に従軍記者の岸田吟香が食した記録が見られる。 保存方法は、冷蔵庫がほぼ完全普及する昭和50年代までは卵つと(卵苞)という編まれた藁の容器で、通気性の良い日陰に保存するのが一般的であった。
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