日本の麦湯・麦茶の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 17:08 UTC 版)
麦湯は、平安時代から貴族が飲用していたとされる。以後、室町時代まで貴族が飲用し、戦国武将にも飲まれた。江戸時代には屋台の「麦湯売り」が流行した。天保に書かれた『寛天見聞記』には「夏の夕方より、町ごとに麦湯という行灯を出だし、往来へ腰懸の涼み台をならべ、茶店を出すあり。これも近年の事にて、昔はなかりし也」とあるように、専門店である「麦湯店」も出現した。これは麦湯の女と呼ばれる15歳程度の女子が、一人で食事も何もなく麦湯のみを4文ほどで売るものであった。なお、大麦の収穫時期は初夏であり、獲れたての新麦を炒るのが美味であるため、夏の飲料とされた。明治時代に麦湯店も流行ると同時に、庶民の家庭でも「炒り麦」を購入し飲用されるようになった。 1945年まで日本の統治下であった朝鮮半島においても、日本の麦茶が習慣として広まった。もともと朝鮮半島では、飯を炊いた直後の、焦げ飯がついたままの釜で沸かした湯「スンニュン」を食後の口直しとして飲む習慣があった。現在の韓国では炊飯器での炊飯が一般化し、焦げ飯ができないため、スンニュンの代わりとして麦茶、あるいはトウモロコシ茶が広く飲まれている。 昭和30年代に冷蔵庫が普及し、冷やして飲む習慣が生まれた。昭和20年代までは麦茶を素焼きの壺に入れて、蒸発熱によって生ずる冷却を利用して麦茶を冷やし飲んでいた。上水道が全国的に普及する以前、夏場は食中毒の用心から生水よりも「湯冷まし」の飲用が勧められていた。そのため自然冷却した麦茶を子供に与えていた。麦茶を商品として売ることも広まり、昭和40年代には日本全国で麦茶の名称が一般的に浸透した。なお、名称は太平洋戦争前には東日本は六条大麦を使用した麦湯、西日本は裸麦使用の麦茶となっていたという。 1963年(昭和38年)に常陸屋本舗が大型コーヒー焙煎機を輸入し、それを利用して麦茶の大量生産を開始し、同年に日本初のティーバッグ麦茶(煮出し専用タイプ)が同社から発売された。 1965年(昭和40年)に水出しタイプとして初のティーバッグ麦茶が石垣食品から発売された。 1978年(昭和53年)には初の容器入りリキッド(液体)タイプ、1リットル紙パックタイプのチルド麦茶が乳業メーカー数社から発売された。 1980年(昭和55年)にはハウス食品が大手食品メーカーとして麦茶市場に初参入し、冷水用と煮出し用のティーバッグ麦茶を同時に発売し、1980年代には缶やペットボトル入りの麦茶が発売されたことによって、規模が小さかった麦茶市場が発展して市場規模が拡大していった。その後、ポーション(濃縮液)タイプの麦茶も発売されている。 現代において、麦茶を家庭で作る場合は、粒状の物を用いて煮出すことは少なく、利便性・経済性が向上した煮出し・水出し用のティーバッグを使用することがほとんどである。ただし、これらは粒状の物と比べて「香ばしさ」「うまみ」「香り」が落ちる傾向である。また麦茶の性質上、リットル単位で作ることが前提となっており、また専用のボトルなどを用意する手間もかかるため、近年では手軽に飲める缶・ペットボトル入りや、水に溶かして一人分ないし数人分を作れる濃縮液タイプも利用されている。
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