日本の公式初参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 12:39 UTC 版)
「ウィーン万国博覧会」の記事における「日本の公式初参加」の解説
万博参加の目的としては、日本の上質な物産を展示することにより国力をアピールし、輸出産業の充実につなげること、国内の物産の収集により学芸の進歩に役立つ博物館の建設を計画すること、海外の最先端技術を知ることで日本の技術向上に役立て、海外諸国の出展品の原価や販売価格を調査し、海外市場の資料とすることなどがあった。 万博会場では、約1,300坪の敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居、神社、神楽堂、反り橋を配置したほか、産業館にも浮世絵や工芸品を展示した。選定には、オーストリア公使館員のハインリヒ・フォン・シーボルトとドイツ人のお雇い外国人ゴットフリード・ワグネルが助言した。シーボルトは東洋のエキゾチシズムをアピールするため人目を引く大きなものが良いとし、名古屋城の金鯱、鎌倉大仏模型、約4m高さの東京谷中天王寺五重塔模型、直径2mの大太鼓、直径4mの提灯などを選び、ワグネルは西洋の模倣でしかない機械製品よりも、日本的で精巧な美術工芸品を中心にしたほうがよいとし、日本全国の優れた工芸品を選んだ。神社と日本庭園は大いに評判となり、展示物も飛ぶように売れた。ウィーンでもジャポニスムが注目され、その後1890年代の分離派画家グスタフ・クリムトの日本文様を意識した絵画などに受け継がれていった。 この万博では越前和紙の製品が「進歩賞牌」を獲得しており、2017年2月に越前市内の蔵でその賞状とメダルが発見された。 会期終了後、出展品の一部は寄付・売却され、屋外展示物の建物や庭園はイギリスのアレクサンドラ・パレス (Alexandra Palace and Park) に移築され、そこに日本村Japanese Villageが作られた。ヨーロッパ各地に日本ブームがわき起こり、これを機会に、内務省支援の半官半民の輸出商社「起立工商会社」(社長松尾儀助)が万博翌年に設立され、明治時代前半の日本の輸出貿易において大きな役割を果たした。 また、日本へ送り戻す展示美術品と欧州で買い求めた西洋美術品を乗せたニール号が伊豆半島沖で遭難し、出品物192箱のうち陶磁器・漆器等68箱分は見つかったが、残りは海の藻屑となった。万博事務副総裁だった佐野常民から事件を聞いた英国のサウス・ケンジントン博物館(現ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)は、その損失補填として、陶磁器やガラス器などヨーロッパの美術製品を集めて日本へ寄贈することを決め、1876年末に内務省の博物館(現・東京国立博物館)に収蔵された。これらの選定と運搬の指揮をとったクリストファー・ドレッサーはロンドン万国博覧会 (1862年)で日本の展示品を見たことがきっかけで日本美術に傾倒したデザイナーで、寄贈品を送り届けたのち日本にしばらく滞在し、各地で美術品を収集した。
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