政策決定の経緯
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第二次世界大戦の勃発原因の一つであったナチス・ドイツによるチェコスロバキアに対するズデーテン地方要求やポーランドに対するポーランド回廊要求は、その地域に民族ドイツ人が多く存在していることが根拠とされていた。ミュンヘン会談後、チェコスロバキアはドイツによって事実上併合されたが、ドイツ人はチェコ人を劣等民族として扱い、国内や国外のチェコスロバキア独立組織はドイツ人に対する反感を強めていった。ロンドンのチェコスロバキア亡命政府大統領であったエドヴァルド・ベネシュは、1940年1月にイギリス政府に提出した覚書の中で、「多くの場合、住民の移動およびできるだけ民族的に同質な地域を創出しなければならない」と住民移動の可能性を述べる一方で、「チェコスロバキア国内にドイツ人マイノリティは残る」として国外移住には触れていなかった。しかしチェコ国内に残留した解放組織ではドイツ人追放を求める声が高まり、1940年の段階でほぼ方針を固まっていた。しかし10月になるとベネシュはズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織との会談で、「100万人のナチスをドイツ国内に追放する」必要があると述べ、チェコ国内のドイツ人を集中的に住居させる一方で、ナチスの協力者であるドイツ人については追放するべきであるという主張を固めつつあった。ズデーテン・ドイツ社会民主党などはドイツ人追放について反対し続けたが、連合国に大きな影響を与えることはできなかった。ベネシュは1942年1月号の『フォーリン・アフェアーズ』にマイノリティ問題の解決策として大規模な住民交換を行う必要であるとした論文を発表し、大きな反響をもたらした。 ナチスの占領地域における蛮行が連合国に伝えられると、イギリス政府内でもナチスと他のドイツ人を分けて考えるべきではないという「ヴァンシタート主義」が台頭していった。また独ソ戦開始以降、ソビエト連邦のヨシフ・スターリンはドイツの領土を割譲して戦後のポーランドに与えることで、ソ連が占領したポーランド東部領土にかえようとしていた。 1942年1月31日にポーランド亡命政府の大統領ヴワディスワフ・シコルスキと会談したイギリスのウィンストン・チャーチル首相は「住民がひどく混住していて解きほぐすことが不可能な領域においては、再移住の方法が採用されるだろう」と戦後における住民交換の可能性を認めた。8月25日にはミュンヘン協定の無効が宣言され、ズデーテンにおけるドイツ人問題が連合国における協議の争点となった。1943年5月12日にベネシュはアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領と会談し、ドイツ人移住によってドイツ人人口を減らすという方針について、ルーズベルトの同意を得たと記述している。ただしアメリカ国内ではポーランド領となる東プロイセンについては住民移動を認める方針を固めつつあったものの、その他の地域については意見は分かれていた。ベネシュはチェコスロバキアからの「300万人のドイツ人移住」に対する米・英・ソ三大国の許可を得たと吹聴したが、イギリス外相アンソニー・イーデンは中南欧からのドイツ人移住について一般的原則を述べたのみであり、ズデーテン・ドイツ人追放に同意を与えたことはないと言明した。 ドイツ降伏が間近になった1945年、チェコスロバキアでは亡命政府が帰還したが影響力を十分に行使できない状態となった。国内は無法状態に陥り、統制されない暴力や殺戮、強制労働などが頻発し、「野蛮な追放」と呼ばれる統制されない追放も相次いだ。一方でチェコスロバキア政府は同年2月頃からドイツ系住民の資産凍結や市民権停止など、一連の迫害的な政治命令を行っている(ベネシュ布告)。またポーランドやハンガリーからもドイツ人の追放が相次いで行われていた。この状況を収拾するため、7月に開催されたポツダム会談ではこれらの国からのドイツ人追放を認める一方で、ドイツの占領を統括する連合国管理理事会(英語版)がドイツからの避難民を受け入れる条件作りを行うまで、追放を停止するよう呼びかけることが合意された。チェコスロバキアはこの政策を承認し、1946年から本格的な移送を開始した。
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