托鉢生活
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「ヴィヴェーカーナンダ」の記事における「托鉢生活」の解説
出家者(サンニャーシン)は遊行の旅に出るという伝統にしたがい、1890年7月に托鉢生活を始めた。コルコタを出てベナレス、アヨーディヤー、ラクノウ、アグラ、ビリンダーバン、ヒマラヤと放浪した。ラーマクリシュナの信奉者の教団の組織化を図ったが失敗に終わった。藩王諸侯の援助を得るようになり、1892年ラージャスターンのアジット・シン (ケートリ藩王)(英語版)の助言でスワミー・ヴィヴェーカーナンダを名乗るようになった。最初の弟子サラット・チャンドラ・グプタに出会い、彼は名をサダーナンダと改めて、ヴィヴェーカーナンダに従った。 この期間に、ヴィヴェーカーナンダは貧民の小屋から藩王の宮殿まで様々な場所に滞在した。彼はインド、当時のイギリス領インド帝国の様々な人々に親密に接し、異なる宗教の文化と交流し、インド人の強さと弱さを観察し、インドの荒廃を目にした。支配者であるイギリス人はインドの富を吸い上げその一部を本国、インド外で消費し、インドに還元せず、何の見返りももたらさないという点で、それまでインドを支配したどのような征服者とも異なっていた。インドは豊かな自然に恵まれていたが、イギリスの支配下で搾取と後進的な農業、産業経済構造によって大部分のインド人が貧困と飢餓に苦しみ、幾度も大飢饉に襲われていた。ヴィヴェーカーナンダは、インド民衆の状況を次のように表現した。 荒れ狂う疫病とコレラによる荒廃、国の生命にくいいるマラリア、第二の天性となった飢餓と半飢餓、死のような飢餓がしばしば悲劇の舞踏を踊る……三億の人間の集塊、外見が人間に近似するに過ぎない―同国人と外国諸国に踏みつけにされて命を打ち砕かれ……なんの希望もなく、過去もなく、将来もなく―…同胞の富が我慢ならない奴隷にふさわしい邪悪な性格―……強者の足の埃をなめる一方で弱者には手ひどい仕打ちをし―弱きものを自然に捕らえる醜悪で悪魔的な迷信に満ち、将来の希望もなく、―道義心の基準もなく―こうした三億の民がインドにあふれかえっている、同数の蛆が腐って臭気を発する死骸に群がるように―これがわれわれの姿であり、イギリス人官吏の目にも当然映る姿なのだ。 このような絶望的な状況下で、ヴィヴェーカーナンダは観念的な教えばかりを説くインド人が多いと感じ、心の教えだけを説くのは無益であると思うようになり、師ラーマクリシュナが無駄な行いだと揶揄した社会的実践の必要性を感じるようになった。社会の平等を西洋に学び、西洋は精神的な教えをインドに学ぶべきだという信念が生まれた。 1892年にインド亜大陸の最南端のカンニヤークマリに辿り着き、そこで瞑想にふけった。その岩はカンニヤークマリのヴィヴェーカーナンダ記念の岩として観光地になっている。 当時、アメリカのシカゴ万国博覧会で万国宗教会議(英語版)が開催されることが決まっており、ブラフモ・サマージなどから幾人か代表が選ばれていたが、正統派ヒンドゥー教は無関心を貫いており、出席しようという人はなかなか出なかった。ヴィヴェーカーナンダは、ラムナードやマイソールの藩王、それにケートリ藩王アジット・シンなどの資金援助を得て、ヒンドゥー教を代表して出席することになり、これが人生の大きな転機となる。出席の理由としては、兄弟子に次のように語っている。 いいですか、先輩!この国中に広がっている極貧の状況下にあって、人々に宗教を伝道することにどんな意味がありますか。もしも私がこの国の貧困と苦悩を取り除くことに成功したならば、その時にこそ私は宗教について話そうと思います。 インドの貧困者を救済する方法を見出そうとし、またラーマクリシュナの思想の伝道を目指しての参加だったと考えられている。
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