戒厳令解除・「動員戡乱時期臨時条款」の廃止と憲法修正
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「中華民国憲法」の記事における「戒厳令解除・「動員戡乱時期臨時条款」の廃止と憲法修正」の解説
38年間継続していた戒厳令は蔣経国政権下の1987年7月15日に解除され、戒厳令解除後の1989年12月に立法委員の増加定員選挙、県長、市長、台湾省議会議員選挙、台北市・高雄市市議会議員選挙が一斉に行われた。この選挙で結果的に国民党は圧勝したものの得票数は58パーセントに止まり、一方で本格野党として初めて選挙戦を戦った民進党は6県1市で首長の座を獲得し、立法院においても21議席を獲得して法案提出資格を得た。民意が国民党の独裁に反対し、民主化を求めていることが明瞭になった。そこで、1991年4月30日、李登輝総統は「動員戡乱時期臨時条款」の廃止を宣言し、翌5月1日より廃止した。これに合わせて同日「中華民国憲法増修条文」10か条を公布した。この憲法修正は、「一機関両段階」と呼ばれる方式によって行われた。憲法修正手続きを定めた憲法第174条には、国民大会代表の5分の1以上の提案を受け、3分の2が出席し、出席者の4分の3の決議がある場合、又は立法院の提案を受け国民大会が承認した場合に修正できることになっている。しかし当時の国民大会代表は、中国大陸時代に選出されたまま40年間改選されていない万年議員であり、台湾を対象とする民意代表機関とはいえない。そこで第一段階として手続き面での改正を行い、その後第二段階として国民大会代表について民意を代表する機関に改めたうえで実質的な修正を行う必要があった。 1991年4月の憲法修正後、12月には国民大会代表選挙が行われ、民意を代表する形が整えられた。そして1992年5月27日に実質的憲法修正を終え、第2段階に当たる憲法増修条文第11条から第18条がまとめられ、国民大会の手続きを経て、1994年8月1日に公布された。国民大会の地位、総統の職権と選挙方法、司法院、考試院、監察院、地方自治など、大中華民国を前提とする憲法を台湾のみ支配しているという実態に適応させる修正であるが、憲法の条文そのものを改正したのではない。憲法の既存の規定の適用を停止して、修正条文の適用を優先させた。以下は、中華民国憲法の改正の歴史についての一覧である。 改正次数年度内容第1次1991年 「動員戡乱時期臨時条款」の廃止。人権条項の実効性の確保。総統の緊急命令権を規定するなど総統権限を強化。 第2次1992年 司法院、考試院、監察院の規定を整備。民選による台湾省長を置くことを規定。 第3次1994年 総統直接選挙制の導入。総統の人事任命権に対する行政院長の副署制度の廃止。 第4次1997年 総統の行政院長任命権の整備。立法院解散権の整備。中小企業支援条項の整備。台湾省の廃止(台湾省の範囲は、中華民国全体の支配地域と実質的に重複しており、省としては形骸化していたため、これを廃止した) 第5次1999年 立法委員任期の延長を図った。(ただし、この改正については2000年3月に司法院大法官会議が採決手続きの不備を理由に無効と宣言した。) 第6次2000年 司法権の独立規定を導入 第7次2005年 総統、副総統の弾劾手続。憲法改正の際の国民投票手続きの導入。立法委員の定数、任期、選出方法の変更。国民大会の廃止。 これらの改正により「台湾式半大統領制」と言われる統治体制が確立されるとともに、中華民国憲法の実質的台湾化が図られたとも言える。
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