戒厳令発布
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:40 UTC 版)
警視総監の赤池濃が「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。水野も朝鮮総督府政務総監時代の1919年9月2日(地震の4年前)、独立党党員に爆弾を投げられ重傷を負ったことがある。これを受け、9月2日には、東京府下5郡に戒厳令を一部施行し、3日には東京府と神奈川県全域にまで広げた。この戒厳令発令が水野内務大臣の最後の公務となり、内務大臣の役職は後藤新平に引き継がれた。一方で戒厳令のほか、経済的には非常徴発令・暴利取締法・臨時物資供給令・モラトリアムが施行された。最終的に政府は朝鮮人犯罪を一切報道しない報道規制を行うまでになった[要出典]。陸軍は戒厳令のもと騎兵を各地に派遣し、軍隊の到着を人々に知らせたがこのことは人々に安心感を与えつつ、流言が事実であるとの印象を与え不安を植えつけたとも考えられる。この戒厳令により、警官の態度が高圧化したとの評価もある。
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