怨霊譚と顕彰・信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 05:58 UTC 版)
上述の通り『総葉概録』(1715年成立)には、惣五郎が堀田氏に祟るようになったという説や、佐倉藩主堀田正信の改易が、惣五郎の怨霊によるものという説が載せられている。公津村を中心に、藩との訴訟に敗れ処刑された惣五郎が堀田氏を滅ぼし、人々が将門山に彼を祀ったことが伝えられていたようである。延享3年(1746年)、佐倉藩主として堀田正亮が入封した(正信の弟である堀田正俊の子孫にあたる)。正亮は将門山(現在の千葉県佐倉市大佐倉)に惣五郎を祀り「口の明神」と称した。また、宝暦2年(1752年)は惣五郎親子の百回忌の年であるとして(承応2年(1653年)8月4日が処刑日とみなされた)、口の明神を造営し、「涼風道閑居士」の法号を諡して、以後春秋に盛大な祭典を行った。寛政3年(1791年)には堀田正順が惣五郎に徳満院の院号を送り、石塔一基を寄進。文化3年(1804年)には堀田正時が惣五郎の子孫に供養田を与えた。惣五郎を佐倉藩堀田家が公認したことで、18世紀後半に惣五郎物語の形成が進むことになった。 江戸時代後期以降近代にいたるまで、佐倉惣五郎を祀る祠や神社が各地に造営された。鏑木行廣によれば、日本全国で30か所あまりが確認できるという。東勝寺は明治時代に佐倉惣五郎の霊を祀る宗吾霊堂を建てており、寺そのものが「宗吾霊堂」の通称で知られる。東勝寺は「宗吾様」を本尊としている。大佐倉の「口の明神」(口ノ宮神社)は大正時代に火災で社殿を失うものの、隣接する将門神社と合わせ将門口ノ宮神社となり、平将門とともに祭神として祀られている。 長野県飯田市上飯田字實山の松川入佐倉神社は寛文12年(1671年)以前の創建と伝えられており、惣五郎を祀る神社では最も古いものとされる。堀田正信は飯田藩主脇坂安政(正信の実弟)に預けられていた時期があり、惣五郎のことなどで気を病んだ正信の心を休めるために脇坂安政夫人が御典医と相談し、惣五郎を祀る小祠を建てたのが起源と伝えられている。飯田市地域には惣五郎を祀る祠や神社が多数(少なくとも11か所)ある。長野県飯田市北方の佐倉神社は、昭和の不況で農村社会に不安が広がる中、宗吾霊堂の神霊を勧請して1932年(昭和7年)に創建された。 東京都台東区寿三丁目の宗吾殿は、近江国宮川藩堀田家(堀田正信の子孫の家系)が屋敷内に祀ったもので、享和5年(1803年)に行われた法要のころに建立されたと考えられている。戦災の後、昭和28年(1953年)に有志によって再建されたが、2017年に解体された。 新潟市中央区の古町愛宕神社境内社である口之神社は、口ノ宮神社からの分霊を受けて1884年(明治17年)に創建されたもので、地元で起こった新潟明和騒動の義民も併せて祀り顕彰した。
※この「怨霊譚と顕彰・信仰」の解説は、「佐倉惣五郎」の解説の一部です。
「怨霊譚と顕彰・信仰」を含む「佐倉惣五郎」の記事については、「佐倉惣五郎」の概要を参照ください。
- 怨霊譚と顕彰信仰のページへのリンク