復旧と救助活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 22:13 UTC 版)
医師や葬儀業者、病院、その他救助に必要な者への連絡のため、電話交換手達は電話局内に缶詰となった。ランシング消防署は現地に3人の署員と、消防車を派遣した。 地元の医師J・A・クラム博士と看護師の妻は、第一次世界大戦に従軍した後、バスに戻り薬局を開業していた。学校での爆発発生後、クラム夫妻は自分達の薬局をトリアージを行う場所として提供した。死亡した者は、遺体安置所となっていた町の役所に搬送された。生存者やその家族を病院に搬送するため、一般の市民からは、所有する自動車を臨時の救急車として使用させてくれる者が募集された。事件当日の午後には13台の自動車が、遺体を役所から葬儀業者へ搬送するために使用された。 何百人もの人々が一日中、瓦礫の下敷きになっている子供達を救出するために働いた。地元の建設業者は社員を全員救援活動に参加させたほか、多くの普通の人々が、現場で救助を求める人達に手を差し伸べた。やがて、34人の消防士とランシング消防署の署長が救援に到着し、ミシガン州警察の警察官達が周辺の交通整理に当たった。死者や負傷者はランシングのスパロウ・ヘルス・システム病院(Sparrow Health System)とセント・ローレンス病院(St. Lawrence Hospital)に移送された。セント・ローレンス病院は、ランシングのオールズモビルの工場「ランシング・カー・アッセンブリー」(Lansing Car Assembly)の支配人、ローレンス・プライスの出資により建設されたもので、プライスはキーホーの妻ネリーのおじである。 ミシガン州知事フレッド・グリーン(Fred Green)も午後には現場に到着、救援活動に参加して瓦礫を学校敷地から運び出す作業に当たった。ランシングの製パン業者、ローレンス・ベーキング・カンパニー(Lawrence Baking Company)は、トラックにパイやサンドウィッチ等を満載して役所に届け、救援活動に従事している人々への差し入れとした。 爆発により校舎の北側部分が破壊されたが、さらに救助隊は校舎の南側からキーホーが仕掛けていた、まだ爆発していない約230 kgのダイナマイトを発見した。このため救援活動が中断され、ミシガン州警察がこれらの爆発物の無力化を行った。爆発物の処理が終わり、校舎内から爆発物が一掃された後に復旧活動が行われた。 校舎南側からは州警察によりさらに、目覚まし時計に接続された爆発物が、まだ爆発していない状態で発見された。時計は北側で爆発があったのと同じ時刻、午前9時45分にセットされていた。これらの爆発物がなぜ爆発しなかったのかを断定する事は、もはや不可能である。捜査員達は、最初の爆発によりこれらの爆発物の電気経路にショートが生じたためではないかと推測している。 警察官、消防署員は、キーホーの自宅にも火災の調査のために訪れた。キーホーの農場の焼け跡から、焼け焦げた遺体が発見されたが、それがキーホーの妻ネリーであると判明したのは、翌5月19日になってからであった。遺体は激しく損傷しており、前日にもそばを人々が通りがかったが、遺体に気付いた者は誰もいなかった程である。 キーホーの農場内の建物は全て破壊され、納屋に閉じ込められていた農場の動物は全滅した。皮肉なことに、農場内に残っていた未使用の設備、道具類の総額は、キーホーの負債を補うには充分であることが分かった。また、捜査員達は、キーホーの最期のメッセージが記された木板が、農場の柵に括りつけられているのを発見した。メッセージはステンシル(型板)を使って次のように刷られていた。 「 人は周りから犯罪者にされるのであって、生まれながらの犯罪者はいない。(CRIMINALS ARE MADE, NOT BORN) 」
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