恵慈
(彗慈 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/06 20:31 UTC 版)
恵慈 | |
---|---|
飛鳥時代 | |
尊称 | 三宝の棟梁 |
生地 | 高句麗 |
寺院 | 法興寺 |
弟子 | 厩戸皇子 |
恵慈(えじ、? - 推古天皇31年2月22日(623年3月31日))は、飛鳥時代に高句麗から渡来した僧。慧慈とも[1]。
人物
三論宗、成実宗に通じ、推古天皇3年(595年)に朝鮮半島の高句麗から渡来して、厩戸皇子の仏教の師となり、飛鳥時代の日本仏教界で活躍した。仏教を日本に広め、推古天皇4年(596年)、法興寺(蘇我善徳が寺司、現在の飛鳥寺安居院)が完成すると、百済の僧慧聡と住し、ともに三宝の棟梁と称された[1]。
『伊予国風土記』には、伊予国の温泉(道後温泉)に聖徳太子、葛城烏那羅とともにでかけ、その妙験をたたえたと記されている[1]。
熊谷公男は「彼は厩戸皇子の仏教上の師にとどまらず、その外交顧問でもあったとみて誤りあるまい」と述べ、遣隋使の派遣も彼の意見に触発された可能性が高いと述べている[2]。また森浩一は「日本に始祖王の墓(神武天皇陵。引用者注)の必要を説き、それを高市郡に営ませた人物である可能性が強い」と述べている[3][4]。
推古天皇23年(615年)、聖徳太子が著した仏教の経典である(『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』)の注釈書『三経義疏』を携えて高句麗へ帰国し、『三経義疏』を高句麗に伝え、広める[1]。
推古天皇30年2月22日(622年4月8日)[5]に聖徳太子が没したという訃報を聞いて大いに悲しみ、「高麗僧恵慈…誓願して曰く、日本国に於て聖人(聖徳太子)有り、…玄聖の徳を以て日本の国に生まる」といい[6]、来年の命日に死ぬと予言し、その誓いどおりに入滅したしたので、高句麗人は恵慈もまた聖なりと評したという[1]。
韓国における恵慈
韓国の歴史教科書は「高句麗もたくさんの文化を日本に伝えてあげた。高句麗の僧侶彗慈(恵慈)は聖徳太子の師であり、曇徴は紙、墨、硯を作る技術を教えてあげ、法隆寺金堂壁画も彼の作品として知られている」と記述している[7]。
脚注
- ^ a b c d e 『慧慈』 - コトバンク
- ^ 講談社学術文庫 日本の歴史03『大王から天皇へ』ISBN 9784062919036 p222
- ^ 中公文庫 日本の古代5『前方後円墳の世紀』ISBN 9784122025455 p260
- ^ 森は箸墓古墳があるのになぜ始祖王の墓を新造する必要があったのかを説明していないが「女の墓」という伝承との関連を示唆している(同書p317)。推古天皇も女帝であることを隋に明かしていない。
- ^ 『日本書紀』は聖徳太子(上宮太子)の死を推古天皇29年2月5日とし、恵慈の死を翌年の2月5日とする。
- ^ 蔣立峰・厳紹璗・張雅軍・丁莉 (2010年). “序章”. 日中歴史共同研究報告書 (日中歴史共同研究): p. 26-27
- ^ “歴史の共同研究 聞く耳持たぬ中韓ではなく米台と始めるべき”. NEWSポストセブン. (2013年7月28日). オリジナルの2015年2月9日時点におけるアーカイブ。
参考文献
- 「アジア人物史 2」集英社、2023年
関連項目
- >> 「恵慈」を含む用語の索引
- 恵慈のページへのリンク