延伸開業まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 18:35 UTC 版)
一方、上茶路駅から釧路二股駅までの区間は1966年(昭和41年)5月11日に工事実施計画が認可されると同時に着工、1968年(昭和43年)には日本鉄道建設公団の手により路盤工事に着手、翌1969年(昭和44年)には軌道敷設工事が開始されていた。1970年(昭和45年)2月6日に開業設備工事の着手が認可され、同年10月30日に完成していたものの、折り悪く上茶路炭鉱は同年2月に閉山となり、石炭輸送が皆無となっていた。また、当時は「赤字83線」のローカル線廃止取り組みの最中であり、開業すれば赤字必至のローカル線の引き受けを国鉄が拒否したため、完成した線路が放置されることとなった。 国鉄側は「上茶路駅構内がまだ旅客営業用になっていないなど、未完成な部分が多く、このままでは開業できない」とし、国鉄釧路鉄道管理局は「上茶路炭鉱の閉山で沿線人口は456人減り、1510人になってしまった。列車を走らせれば1kmにつき741円の赤字になり、根北線以上の不振線区が生まれるのは間違いない」とのデータを示した。一方、鉄道公団札幌支社は「鉄道建設公団法に基づき、国の命令によってつくった鉄道。赤字になるのはわかり切っているが、当然、開業すべき」という態度を示した。白糠町でも早期開業の陳情に努めており、同区間の民間バスに年間150万円の補助を出して運行継続させていることを挙げながら「沿線住民の“足”を考え、ぜひ列車を走らせてほしい。なにより、将来、足寄とを結ぶ動脈として、地域の発展上ぜひ必要」とした。 国鉄北海道総局では1970年11月11日、上茶路 - 釧路二股(仮称)間に列車を運行した場合、同区間の営業係数は2291になる見通しを公表した。開業した場合、1日3往復させる計画だが、1日の利用客は56人、年間の赤字額は998万円と試算した。既に開業済の白糠 - 上茶路間と合わせた営業係数では1260となり「赤字経営に拍車をかけ、それに雄別炭砿上茶路砿業所が閉山されたいま、それほどの重要性は持たない」とした。 赤字83線の取組みが頓挫した1972年(昭和47年)7月7日に田中角栄内閣が成立し、北海道出身の佐々木秀世が運輸大臣に就任した。直後の7月12日に白糠町長の千葉清が運輸省を訪問して佐々木大臣に釧路二股駅までの開業の要請をしたところ、話が急速に進んで7月14日には開業認可が下りることになった。採算的に合わないとして運輸省が国鉄から出された営業申請に対する認可を棚上げにしてきたが、佐々木は「赤字線といっても公共性の高い路線については国鉄が営業すべきである」として開業認可に踏み切った。 開業に際して、延長区間に設置された奥茶路駅と終点である釧路二股駅に関しては、さらなる延長への期待を込めて延伸開業時にそれぞれ「下北進」および「北進」と変更され、駅の整備や線路の手直し、防雪柵の設置など開業準備工事を進め、1972年9月8日に上茶路駅から北進駅までが開業した。一方で、同年6月に北海道内で札沼線の一部区間が廃止されていたことから、同線沿線関係者による「白糠線より利用者の多い札沼線をちぎっておいて、片方で廃止予定線を延長することはおかしい」とのコメントが全国紙に掲載された。
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