市場での勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:59 UTC 版)
1982年8月に出荷を開始すると、数多の対抗マシンとの競争にさらされた。最初はC64の低価格が強みだったが、すぐに他社も追随してきた。北米での主な競合機種は Atari 400/800 と Apple II である。アタリのマシンはハードウェアとしては良く似ていたがサウンドとグラフィックスにカスタムチップを使っていたために高価であり、アタリは工場をアジアに移さなければならなかった。また、アタリはコストダウンを目的として再設計も行った。すでにリリースされてから時を経ている Apple II はハード的には敵ではなかったが、後継機の Apple IIe にはコモドール64以上の高精細グラフィックモードがあった。また Apple II は筐体内に複数の拡張スロットを備えていたが、C64にはバス拡張手段としてはカートリッジ用ポートが1つしかなかった。ただし、アップルは拡張スロットを一般的周辺機器(ディスクドライブ、プリンタ、モデムなど)の接続に使っていたのに対し、C64にはマザーボード上にそれらを接続する専用ポートを備えていた。 これら競合マシンは1982年から83年ごろにはメモリ搭載量では大差なくなっている。Apple II+ のメモリ搭載量は48kBで、C64出荷後1カ月で 64kB 搭載の Apple IIe が登場した。Atari 800 も48kBとなった。Apple II はC64の2倍以上の価格だったが、Atari 800 は899ドルだった。他にも多くの競合機が存在したが、C64の成功の鍵はコモドールの大胆なマーケティング戦略にあった。 コモドールはC64出荷後の1982年後半、価格性能比の相対的高さを利用した一連のテレビCMをうった。コモドールは認定代理店だけでなく、デパートや玩具店やディスカウントストアでもC64を販売した。これは、以前にVIC-20でもとられた販売戦略である。RFモジュレータ内蔵であったため、テレビに接続してすぐに使えた。このためVIC-20と同様、Atari 2600 などの家庭用ゲーム機とも直接競合した。また、Apple IIe のようにコンポジット映像信号出力も備えていたため、専用モニターを接続すればより美しい出力が得られる。IIeとは異なり、C64のコンポジット映像信号はS端子出力のように輝度信号と色信号に分離して出力可能であり、コモドール純正の 1702 モニターがそれに対応していた。 C64の積極的な低価格戦略は「アタリショック」として知られる1983年の北米でのゲーム機市場崩壊の主要因と見られている。1983年1月、コモドールはアメリカにおいて、コモドール64の購入の際にゲーム機を含む他の機種を100米ドルで下取りするキャンペーンを展開。このキャンペーンに乗じて、一部の通信販売業者や小売店は不良在庫のTimex Sinclair 1000 をC64におまけとして10ドルでつけて販売した。購入者はそれをコモドールに送り、100ドルを得ることができた。コモドールの低価格戦略により、主要ホームコンピュータメーカーは価格競争に突入。価格的には安いものの性能的にはC64に大きく劣るZXシリーズを英シンクレア・リサーチ社よりライセンスを得て販売していたタイメックス社は、同年中にコンピュータ事業から撤退した。またテキサス・インスツルメンツ (TI) や他の弱小メーカーも市場からの撤退を余儀なくされた。ジャック・トラミエルには、1970年代の電卓戦争の際にTIと市場で競合し、コモドールが倒産寸前まで追い詰められたという個人的恨みもあった。したがってこれにはTIへの意趣返しの意味もあった。市場の覇者となった後もC64の価格は更に下がり、1980年代後半には北米の一部地域ではC64を100ドル少々で購入できた。 ヨーロッパでは、競合機種はシンクレアの ZX Spectrum とエイコーンの BBC Micro とアムストラッドの Amstrad CPC 464 である。イギリスでは数か月前にC64の半分の価格で出荷された ZX Spectrum が市場の覇者となっていた。1983年時点で、C64が399ポンドに対して ZX Spectrum は175ポンドだった。北米市場ほどのシェアは持ち得なかったものの、C64は1980年代後半までイギリスの国民機 ZX Spectrum と互角に戦い、1985年以降は Zpectrum よりも販売台数が多かった。 コモドールはより高価で利益の見込めるマシンに切り替え、C64を生産終了にしようと何度か試みたが、一定の需要が市場に存在したため難しかった。1988年までに全世界で1500万台を売り上げている。アメリカでは1990年にはC64の需要が低下したが、イギリスを含むヨーロッパでは依然として堅調に推移していた。最終的に時代遅れとなったせいではなく、コモドール社の財政的理由でC64は生産終了となった。1994年3月、ハノーファーでのCeBITでコモドールは1995年にC64を生産終了すると発表。ただし、コモドールは生産終了するとした1995年を迎える前の1994年4月に倒産した。
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