川崎公害訴訟
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昭和42年の四日市公害訴訟の勝訴、昭和53年の西淀川公害訴訟など大気汚染で企業や国家を訴える民事裁判が当たり前になっていた。昭和50年代には日本国内で大気汚染公害訴訟が容易にできる社会情勢になっていた。四日市公害裁判勝訴の原動力となった革新政党や環境運動家の強い応援があり、「川崎公害病友の会」を母体とした川崎公害裁判の原告団を結成した。昭和戦後期に長期間にわたり川崎公害の健康被害を受けた患者と家族、公害病で死亡した患者および自殺した患者の遺族128人は、昭和57年3月18日に横浜地方裁判所川崎支部に、東京電力などの民間企業と、首都高速道路公団と日本国政府を相手どって、総額26億3000万円の損害賠償と環境基準を超える大気汚染物質の排出差し止めを求める裁判を起こした(第1次訴訟)。 原告側は、以下の2点を求めた。 二酸化硫黄と二酸化窒素、浮遊粒子状物質などの有害汚染物質を環境基準まで引き下げる排出の差し止め 公害患者と死亡者に対する生活環境破壊と家庭の崩壊破壊の損害賠償 原告となった患者は『夜が来るのが恐ろしい、咳と発作が夜中に襲ってくる』『大勢の公害患者が苦しみながら死んでいく。私たちの要求は人道的に正当性のある戦いだ』といった内容を訴えた。 このあと1983年から1988年にかけて、第2次 - 第4次の訴訟が起こされている。 被告らは、1991年の弁論で川崎公害患者の訴えは公害病でなくて、心臓ぜんそくや肺結核のよるものだという偽患者論を展開して、病名に疑義をはさめない場合は、タバコの吸い過ぎやアレルギー症状だという他病気他原因論を主張した。 四日市公害裁判など、従来の個別企業やコンビナート関連企業を相手とする裁判と異なり、多くの課題と困難をともなう裁判であったが、原告側は川崎市民の支持と多くの法律家と専門家の協力を得ながら、産業政策・交通道路政策を問題とした。原告団の支援のため、全国の環境問題に取り組む市民運動と環境研究者の組織である日本環境会議が、1986年11月に川崎市で第6回会議を開催した。 第1次訴訟は、1994年1月25日に判決が出された。判決骨子は以下の通り。 本件疫病は高度の二酸化硫黄による大気汚染が原因である。二酸化窒素による大気汚染を疫病の原因を認めるのは困難である。 被告企業は浮島石油化学以外の企業間の共同責任の関連性は認められるが道路との関連性は認められない。 被告企業には損害賠償責任があるが、国家の監督責任や道路公団の責任は認められない。 差し止め請求はその方法、態様を特定していない事などから不適法であり、却下を免れない。 被告12社に対して損害賠償請求総額26億3590万円に対して7億3000万を認容する。 この判決に基づき原告弁護団は『加害企業に勝訴』の垂れ幕を掲げた。川崎訴訟原告団・弁護団との交渉により、国は『川崎南部地域の道路改善のための道路整備方針』を発表した。 判決時点では提訴から12年が経過しており、判決を聞かないまま公害病で死亡した原告男性がいた。 1998年8月5日に第2次 - 第4次訴訟に対する判決が出され、この中では第1次訴訟では否定された二酸化硫黄・二酸化窒素・浮遊粒子状物質と健康影響との因果関係を認め、国と首都高速道路公団に対して賠償を命じた。 これらの判決に対して原告・被告の双方が控訴したが、1996年12月25日に企業、1999年5月20日に国・首都高速道路公団とそれぞれ東京高等裁判所で和解が成立した。1996年の企業との和解では、企業側から解決金31億円の原告への支払と公害防止対策努力が盛り込まれた。1999年5月20日の和解内容は以下である。 自動車を臨海部に誘導するための道路ネットワークの整備 環境施設帯の整備、道路交差点の改良、低騒音の壁の整備 土壌システムの設置 など。
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