公害問題と訴訟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:26 UTC 版)
工業発展とともに公害が問題となり、住民による反公害運動は活発化した。早くも1951年には東渡田住民が煤煙瓦斯防止対策の会を作って市へ陳情した。1963年臨海地域は煤煙規制法による規制地域に指定、1969年には大師・田島地区が公害病救済特別措置法の指定地域になった。川崎の公害反対運動は全国の他地域よりも遅れ、ようやく1970年に公害病友の会が発足された。1970年、川崎市、横浜市、神奈川県と日本鋼管は、全国初となる公害防止協定を締結した。川崎市は公害病認定制度を施行、気管支炎に対する医療介護手当の支給を決定した。 公害問題の噴出は、工業一辺倒であった金刺市政に対する批判を生んだ。1971年4月に7期28年間を務めた金刺市長は辞任し、伊藤三郎が市長となる。 1971年、現在の川崎区全域と幸区のほぼ全域が大気汚染地域に指定され、上平間では初めての喘息発作の学童犠牲者が出る。大気汚染注意報は1969年29回、1970年19回、1971~75年はそれぞれ7~9回と減少し、主要47工場の硫黄酸化物の年間排出量は1972年の56919トンから1978年10083トンに減退した。1970年代の登録被認定患者は4158人に及んだが、1975年をピークに年々減少した。川崎市の公害病認定患者は、1994年までに5911人、死者1500人を数えた。 1982年、川崎公害訴訟は国、公団および14企業を相手に、臨海部に住む喘息患者と遺族119人の原告となって一次訴訟提訴が始まり、1994年の判決後控訴に及んだが、1996年に原告に対し14企業が謝罪、約31億円で和解した。国と公団に対する訴訟は継続し、1999年5月の東京高裁で最終的に和解合意された。
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