公害市長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 23:05 UTC 版)
四日市のさらなる工業化を目指して、九鬼は第2コンビナート(午起地区)の建設を、公害による反対運動がある中で強行した。また、四日市港と共存して四日市港埠頭と兼務する第3コンビナート(霞ヶ浦地区)を建設計画を立案し、法人税や固定資産税の増加を目指して四日市コンビナートに進出した石油化学系企業を税制面で優遇した。 九鬼は大気汚染を出していた石油化学企業や財界の味方につき、四日市ぜんそくは一般的な病気で、千葉県の東京湾沿岸のコンビナート・神奈川県の川崎市コンビナート・岡山県の水島コンビナートでも喘息になるはずで、水俣病やイタイイタイ病のように明確な原因物質が特定されたわけもなく、日本中によくある病気であり、本当に四日市コンビナート企業が原因なのか、他に原因があるのではないかと主張した。そして、市の小中学校でのマスク使用を中止したり、公害対策に真剣に取り組む姿勢を示さなかった。そのため、革新政党や環境運動家によって、公害患者をいじめる悪い市長、無責任市長と批判され、「公害市長」としての悪評が広がった。 九鬼は四日市市長として、四日市ぜんそくで自殺者を出した責任を問われた。最初の自殺者は、1966年(昭和41年)7月10日に自宅で死亡した、当時76歳の男性であった。男性は大協石油四日市製油所に隣接する稲葉町に住んでおり、遺書には「死ねば楽になれる」と記されていた。1966年(昭和41年)7月14日、四日市公害対策協議会の主催で男性の追悼市民大会が開催され、患者を守る会副会長の60歳の男性が、自殺した男性の遺影を持って、静かなデモが行われた。それから1年後の1967年(昭和42年)6月13日、その60歳の男性が、自宅に隣接する菓子工場で自殺した。自殺10日前の日記には、「午後5時過ぎよりスモッグがひどい。亜硫酸がすのため咳がやまず。弁当を作って早々に我が家を飛び出す。ああ残念。家にいたくてもさびしい所に行かなければならぬ。くやしい。九鬼市長ぜんそくやってみろ。公害の影響で死にたくない」と記されていた。「四日市に公害はない」「一般的な病気である」とする九鬼市長の公害責任が問われることになった。
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