公害問題発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 01:09 UTC 版)
「田子の浦港ヘドロ公害」の記事における「公害問題発生」の解説
一般に1960年代から公害問題が取り沙汰されるようになったと言われているが、実際公害発生苦情取扱い件数を見てみると、年代が進むにつれ苦情件数が増加している。1965年(昭和40年)と1969年(昭和44年)を比較すると苦情件数は3倍以上に増えており、その中で最も増加を示しているのが「汚水排水」に関する内容であった。市はこれらの状況をみて1968年(昭和43年)に「公害対策室」を設けたが、同年には「室」から「課」へと昇格させ、「公害課」を設置した。しかしヘドロ公害は収まるところを知らず、1970年(昭和45年)8月には田子の浦港に漁船140隻余が集まり、「ヘドロ公害追放」「駿河湾を返せ」といった漁旗を掲げ抗議する様子が見られた。これは駿河湾周辺の漁師によるものであり、当公害が富士市以外の広地域に影響を与えていたことを示している。また同月に200隻の漁船団が現れ抗議を行うなど、一過性のものではなくなっていた。これはサクラエビが不漁になったといった実際の被害から由来している。また埠頭広場では約5,000人による「汚水海洋投棄反対」の運動が行われた。 その他ヘドロ公害の原因を作ったとして、富士市内の4つの製紙会社(大昭和製紙・興亜工業・大興製紙・本州製紙)を告発、県に対しても住民監査請求を行った。これら製紙会社は浄化処理場の設置を計画せざるを得なくなり、大昭和製紙は34億円を投じて、大興製紙は約4億、そして興亜工業も6億を投じてこれら工事に着工した。ヘドロが沈殿し、1970年時点で田子の浦港吉原埠頭の水深はわずか1~2mとなった。この影響から田子の浦港に入港した貨物船が立ち往生するケースが発生し、大型貨物船には注意喚起の他、一部の荷物を清水港で下ろすという対策を取らざるを得なくなった。中には入港すらできない貨物船も発生した。この頃から国会議員の視察等も相次ぎ、日本全国に広く知られていくこととなる。
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