少女スター
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「エリザベス・テイラー」の記事における「少女スター」の解説
MGMはテイラーを『名犬ラッシー 家路』(1943年)に、その後終生の友情を結ぶことになる子役ロディ・マクドウォールと共演させた。後年マクドウォールはテイラーの美貌について「大きなスクリーンに映し出されるために生まれたこの少女以外の誰が二重まつげをしているだろう」と回想している。『名犬ラッシー 家路』でのテイラーとマクドウォールの演技はどちらも好評を博し、MGMは定時昇給を確約した週給100ドルの条件でテイラーと7年間の出演契約を結んだ。MGMとの契約下で初めて与えられたのは外部出演作品であり、20世紀フォックスが製作する『ジェーン・エア』(1943年)のヘレン・バーンズ役だった。翌1944年にはイギリスを舞台とした『ドーヴァーの白い崖』で、テイラーは再びマクドウォールと共演している。 粘り強く交渉して射止めた『緑園の天使』のヴェルヴェット・ブラウン役で、12歳のテイラーは子役スターとなった。テイラーの役は、愛する馬を調教してグランドナショナルで優勝することを夢見る少女だった。若きミッキー・ルーニーやイギリスの新人女優アンジェラ・ランズベリーらが共演し、1944年12月に公開されたこの作品は大成功を収めた。後年になってテイラーは『緑園の天使』のことを、今までで「もっとも興奮した映画』と呼んでいるが、映画撮影中に落馬事故で痛めた背中は、後に様々な悪影響をテイラーにおよぼすこととなった。 観客も批評家も「一目でエリザベス・テイラーに魅入られた」。ウォーカーは『緑園の天使』が大ヒットした理由として次のように記している。 その大きな成功はひとえにヒロインにある。その思い込みの強い性格で、叶わないことなど存在しないと信じる人々の強い憧れを体現してみせた。……言い方を変えれば人生観を描いた作品として、時代を超える名作という評価を確立したのである(p41)。 『緑園の天使』の興行収益は400万ドル以上を記録し、MGMはテイラーと更なる延長出演契約を結んだ。『緑園の天使』の成功により、テイラーは同じく動物映画である『ラッシーの勇気 (en:Courage of Lassie)』(1946年)に出演している。この映画もヒットし、テイラーのギャラは週給750ドルまであがった。この後もワーナー・ブラザースに貸し出されて出演した『ライフ・ウィズ・ファーザー (en:Life With Father)』(1947年)を始め、『シンシア』(1947年)、『スイングの少女』(1948年)、『奥様武勇伝』(1948年)と全ての出演作がヒットしている。テイラーは確実にヒットを飛ばす子役女優として高く評価され、撮影でNGを出さずに一度のテイクで決めてしまうところから「ワンショット・リズ」と呼ばれるようになった。そして南北戦争時代の一家を描いた古典的名作『若草物語』(1949年)のエイミー・マーチ役が、テイラーの最後の少女役となった。 当時のMGMはスタジオ内に教室を設置しており、子役たちに学校教育を施していた。しかしながらテイラーは、スターとして扱われない普通の子役たちから疎外されるようになり、この教室に嫌気がさすようになっていった。テイラーは子役として映画に出演する前が、子供時代でもっとも幸福な時期だったと振り返っている。 私の人生で、数少ない本当に幸せだった時期のひとつに、女優を始める前の子供時代があります。同級生とゲームをし、お人形遊びやごっこ遊びに夢中になったものです。……『緑園の天使』に出演して有名になったのは私が12歳のときです。今でも私は普通の生活が送りたかったと思うときがあります。でも多分そのころから私は風変わりな変人だという目で見られるようになっていったのでしょう。私は学校が嫌いでした。少なくともあれは学校ではありませんでした。私は子供たちと一緒にすごすこと自体は大好きでした。でも教師が舞台セットにいる私の耳をつかんで引き摺り下ろし、教室に叩き込もうとするのです。私はよく激高しました。そのころ16歳だった私と真面目に接してくれる級友もいなかったのです。15分もしたら教室を抜け出して、ロバート・テイラーの妻役として情熱的なラブシーンを演じたものです。
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