小説世界へ
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「アルトゥル・シュニッツラー」の記事における「小説世界へ」の解説
筆禍事件はあったものの、20世紀に入ると、彼はドイツ語圏の舞台でもっとも上演される戯曲家に数えられるようになっていた。1902年に発表された短編『ギリシアの踊子(ドイツ語版)(Die griechische Tänzerin)』は、嫉妬が嫉妬として結実しないことをあらわした心理小説であった。 1903年8月26日、シュニッツラーは4年間愛人だった女優のオルガ・グスマンと結婚したが、そのとき、息子のハインリヒ・シュニッツラー(ドイツ語版)(1902年8月9日 - 1982年7月12日)はすでに1歳になっていた。 40歳をすぎてからの彼は、自らのユダヤ性に目を向け、それを作品にとりあげるようになった。1908年には20世紀初頭のウィーン社会の諸相を描いた初めての長編小説『自由への道(ドイツ語版)(Der Weg ins Freie)』を発表し、当時のウィーンで目立つようになっていた反ユダヤ主義を取り上げた。この小説は書き上げるのに数年かかった大作で、ウィーンで活動するさまざまなタイプのユダヤ人の肖像が描写されているが、そこにはユダヤ教正統派やユダヤ人労働者の姿はなかった。マルティン・ブーバー、テーオドール・ヘルツル、ジークムント・フロイトといった著名な思想家たちに触発されたものであった。このような作品はほかに、1911年の『広い国(ドイツ語版)(Das weite Land)』や人々のなかにひそむユダヤ性を喜劇化した戯曲『ベルンハルディ教授(ドイツ語版)(Professor Bernhardi)』(1912年)がある。 1910年に彼はヘートヴィヒ・ブライプトロイからウィーン第18区ヴェーリングのシュテルンヴァルト通り (Sternwartestraße) 7番地の家を購入したが、その近所にはリヒャルト・ベーア=ホフマンやフェーリクス・ザルテンなど、彼の知人たちも住んでいた。1914年、第一次世界大戦がはじまると、彼の戯曲作品への関心は次第に薄れていった。それは、彼がオーストリアの数少ない知識人として戦意鼓舞に賛同することができなかったこととも無関係ではない。1921年のベルリンでの『輪舞』の初演の際、彼は公序良俗に反した咎で裁判にかけられ、上演許可そのものも取り消された。同作は20年も前に発表された戯曲だったが、内容が猥褻であるとして上演できなかった問題作だった。彼はそれ以降肉体的・精神的問題のために次第に引きこもるようになった。晩年はおもに短編小説を書き、そのなかで彼は心理学的視点から世紀転換期の個人の運命を描いている。 シュニッツラーは小説においても、人間の内面心理を深く洞察した。短編を得意とする彼は、『グストル少尉』(1900年)で確立した内的独白の手法を『令嬢エルゼ(ドイツ語版)(Fräulein Else)』(1924年)でも採用した。この2つは、登場人物の心理の微妙なうつりかわりを繊細に描写した佳作とされている。『令嬢エルゼ』は性欲の抑圧による女性のヒステリー発作を扱った中編小説である。リビドーを取り上げた中編『ベアーテ夫人とその息子(ドイツ語版)(Frau Beate und ihr Sohn)』(1913年)とともに、フロイト流精神分析の強い影響が認められる作品である。 シュニッツラーは中編『カザノーヴァの帰還(ドイツ語版)(Casanovas Heimfahrt)』(1918年)では人間の老い、中編『夢小説(夢の物語、Traumnovelle)』(1926年)では夢と現実との交錯を扱った。また、『テレーゼ・ある女性の年代記(ドイツ語版)(Therese. Chronik eines Frauenlebens)』(1928年)は一女性の生涯を扱った長編小説であるが、ここでは、生みの母親が嬰児を殺そうとして子供にトラウマを与えるというテーマが展開されている。 彼はまたドイツ語文学における偉大な日記作家のひとりでもある。17歳のときから死の2日前まで彼は几帳面に日記を書き続け、それは彼の死後、1981年に出版された。
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