対潜哨戒機としての運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 03:40 UTC 版)
「カ号観測機」の記事における「対潜哨戒機としての運用」の解説
「あきつ丸#改装」も参照 1943年(昭和18年)、陸軍はカ号を戦時標準船を改造した護衛空母に艦載して対潜哨戒機として使うことを考えた。同年6月4日、特殊舟艇母船あきつ丸にてカ号の発着艦実験が行われ、成功した。 同年7月、オートジャイロ搭乗員として陸軍船舶部隊の中から第1期生10名が選抜され、愛知県豊橋市郊外大清水村の、老津陸軍飛行場にて教育訓練を受けた。1944年(昭和19年)2月、卒業し、入れ替わりに第2期生40名の教育訓練が開始され、同年9月、卒業した。 母船には当初、2D型貨物船が考えられたが、2D型では小さすぎることから、最終的にはあきつ丸と熊野丸(熊野丸はこの時点では未成)、特2TL型山汐丸(同じくこの時点では未成)に決まった。 しかしカ号が艦載されることは無く、この役目はSTOL機である三式指揮連絡機にとって代わられた。これはカ号の生産が遅々として進まなかったことと、本格的な空母で運用するならば固定翼機のほうがオートジャイロより搭載量など総合的な能力で勝る為である。 1944年(昭和19年)4月から7月にかけてあきつ丸は改装され、デリックの撤去と飛行甲板の拡幅と航空艤装が施され、航空機着艦能力を有する本格的な空母に生まれ変わった。三式指揮連絡機は1944年(昭和19年)8月から11月まであきつ丸に艦載され、対潜哨戒任務に就いた。カ号があきつ丸に艦載され対潜哨戒任務に就いたとする説は誤りである。 第1期生と第2期生の計50名の教育訓練終了と共に、1944年(昭和19年)10月、広島市宇品の陸軍船舶司令部本部内に船舶飛行第2中隊(中隊長:本橋大尉(後に少佐))が編成された。これは日本初の回転翼機部隊であった。 同年11月にあきつ丸は沈没し(この時に、前述のフィリピンへの輸送のために、ごく少数のカ号が「貨物として」積載されていたが、あきつ丸とともに失われた)、またこの頃レイテ島が陥落し、南方航路は事実上閉鎖され、南方航路での船団護衛任務自体が無くなった為、カ号は日本本土の陸上基地で運用されることになった。 船舶飛行第2中隊は宇品の江波飛行場にて爆雷投下訓練などの猛訓練の後に、福岡の雁ノ巣(がんのす)飛行場に移動し、壱岐水道などの索敵・哨戒・警護飛行の任務に就いた。 1944年(昭和19年)秋頃から壱岐に筒城浜(つつきはま)基地の建設が 始められ、同年末にほぼ完成した。草地を平坦にしただけの未舗装の滑走路は、長さ約200 m足らず、幅約40 mだった。屋根をシートや竹や藁などで擬装した、奥行き約8 m、幅約5 m、高さ約5 mの、半地下壕式格納庫が十数ヶ所構築された。 船舶飛行第2中隊は、1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)1月始め頃に、雁ノ巣飛行場から筒城浜基地に移動し、1月17日から壱岐水道の索敵・哨戒・護衛飛行が開始された。筒城浜基地の船舶飛行第2中隊は、搭乗員と整備兵、合わせて約200名、運用されるカ号は約20機であった。 5月からは対馬の厳原(いづはら)飛行場にも分遣され、最後に残された大陸とのシーレーンである博多 - 釜山間での対潜哨戒や船団直衛任務に従事した。米艦載機が出現するようになったため、6月に能登半島方面に移動し、石川県の七尾(ななお)基地で終戦を迎えた。本来の目的であるシーレーン防衛の任務はきわめて小規模ながら一応果たしたが、対水上レーダーも無く目視による監視のみでは、潜水艦撃沈などの具体的な戦果を上げることはできなかった。 一方同じ頃、アメリカではシコルスキー R-4やR-6などのヘリコプターが実用化・大量生産され、沿岸警備隊や陸軍が対潜哨戒や輸送任務に艦載して使用していた。カ号は軍用オートジャイロの時代の終焉の象徴でもあった。
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