宮内 聡

芸名 | 宮内 聡 |
芸名フリガナ | みやうち さとし |
性別 | 男性 |
生年月日 | 1959/11/26 |
星座 | いて座 |
干支 | 亥年 |
血液型 | A |
出身地 | 東京都 |
URL | https://www.japansportspromotion.co.jp/management/miyauchi.html |
プロフィール | サッカーの名門・帝京高から古河電工(現:ジェフ市原)へ。名ボランチとして日本代表でも大活躍し今日の日本サッカー隆盛の礎を築いた1人でもある。引退後は、Lリーグ加盟のプリマハムFC(現:伊賀上野FC)監督に就任。その後、1995年から日本女子代表コーチに就任。1996年には日本女子サッカー界の悲願であったオリンピックアトランタ大会初出場に大いに貢献した。1997年から1999年まで日本女子代表監督を務めた後、2000年より成立学園高等学校サッカー部総監督に就任。ここでも、学校史上初となる全国高等学校サッカー選手権全国大会に東京都代表として出場を決める等、男女問わずサッカー指導には定評がある。また、スカパー解説者としても活躍、セリエAやチャンピオンズリーグ及びW杯大会等国際大会に際し現地解説も務め「スカパーの名解説に宮内あり」のイメージを定着。現役時代と変わらぬ熱い語り口は、視聴者に絶大な支持を受けている。 |
代表作品1 | スカパー!『セリエA』(解説) |
代表作品2 | スカパー!『UEFAチャンピオンズリーグ』(解説) |
代表作品3 | 雑誌『WORLD SOCCER DIGEST』 |
職種 | スポーツ |
» タレントデータバンクはこちら
宮内聡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/17 04:30 UTC 版)
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
カタカナ | ミヤウチ サトシ | |||||
ラテン文字 | MIYAUCHI Satoshi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
![]() | |||||
生年月日 | 1959年11月26日(64歳) | |||||
出身地 | 東京都 | |||||
身長 | 175cm | |||||
体重 | 70kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
1975-1977 |
![]() | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1978-1988 |
![]() | 114 | (6) | |||
通算 | 114 | (6) | ||||
代表歴 | ||||||
1979 |
![]() | 0 | (0) | |||
1984-1987 |
![]() | 20 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1989-1998 |
![]() | |||||
1997-1999 |
![]() | |||||
2000-2020 |
![]() | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
宮内 聡(みやうち さとし、1959年11月26日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、指導者。
略歴
帝京高校時代は攻撃的MFとしてプレー。1976年の第55回全国高等学校サッカー選手権大会で3位になり優秀選手に選出。1977年は早稲田一男、金子久らと共に第56回全国高等学校サッカー選手権大会優勝に貢献し優秀選手に選出された。卒業後の1978年に早稲田、金子と共に日本サッカーリーグ1部の古河電気工業(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に入部。同年に日本ユース代表に選出され、1979 FIFAワールドユース選手権のメンバーに選ばれたが、試合出場機会は与えられなかった。
所属する古河電工では2年目の1979年からスタメンに定着しリーグ戦第4節の東洋工業(現サンフレッチェ広島F.C)戦で初得点を記録したが古河での練習中に右膝半月板を損傷。手術とリハビリに数年間を費やし、復帰後も後遺症に悩まされるなど、右膝の怪我は宮内の選手生命を左右する物となった。
1983年に2度目の手術から復帰を果たすと守備的MFに転向。それまでの攻撃を組み立てる側から、体を張った守備やタックルで相手の攻撃の芽を摘み取る側へと代わったが、このポジションで才能を開花。1985年には11シーズンぶり2回目となるリーグ優勝。翌年にはアジアクラブ選手権1986の優勝に貢献した。
日本代表としては、1984年9月20日の韓国戦でデビュー。この試合で評価を受けた宮内は森孝慈監督の下で代表メンバーに定着し、翌1985年に行われた1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では西村昭宏と共に中盤の守備を担い、最終予選進出に貢献した。また、1986年アジア競技大会、1987年のソウルオリンピック予選など国際Aマッチ20試合に出場した。
しかしながら、10年間で6度に渡った手術後も怪我は完治せず、1987-88シーズンを最後に28歳で現役を引退した。
現役引退後の1988年に奥寺康彦が主催したサッカー教室のアシスタントコーチに就任。翌1989年からはこの年から始まった日本女子サッカーリーグ所属のプリマハムFC監督に就任し、10年近くに渡って同クラブの監督を務め女子サッカーの普及にも尽力、1997年から1999年まで日本女子代表の監督を務めた。
2000年から東京都にある成立学園高校サッカー部総監督に就任し全国高校サッカー選手権大会出場に導いている。
2020年、ASエルフェン埼玉の代表取締役会長に就任[1]。
またサッカー解説者としてもスカイパーフェクTV!のサッカー中継(主にイタリアセリエA、UEFAチャンピオンズリーグ)を中心に出演している。
所属クラブ
- 目黒区立目黒第五中学校
- 帝京高校
- 1978年 - 1988年 古河電工
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1978 | 古河 | 22 | JSL1部 | 1 | 0 | ||||||
1979 | 10 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 12 | 1 | |||
1980 | 15 | 3 | 1 | 1 | 0 | ||||||
1981 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | |||
1982 | 4 | 1 | 1 | 0 | 3 | 0 | 8 | 1 | |||
1983 | 16 | 2 | 1 | 0 | 1 | 1 | 18 | 3 | |||
1984 | 8 | 18 | 1 | 3 | 0 | 5 | 0 | 26 | 1 | ||
1985 | 21 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 23 | 0 | |||
1986-87 | 18 | 0 | 5 | 2 | ※ | 23 | 2 | ||||
1987-88 | 20 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 25 | 0 | |||
通算 | 日本 | JSL1部 | 114 | 6 | |||||||
総通算 | 114 | 6 |
※1986年度の天皇杯は、古河電工がアジアクラブ選手権1986-87出場のため辞退
・JSL東西対抗戦 出場1回(1987年)
表彰
- 1976年 第55回全国高等学校サッカー選手権大会優秀選手
- 1977年 第56回全国高等学校サッカー選手権大会優秀選手
- 1985年 日本サッカーリーグ (JSL) ベストイレブン
- 1986年 JSLベストイレブン
代表歴
出場大会
試合数
- 国際Aマッチ 20試合 0得点(1984-1987)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1984 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
1985 | 8 | 0 | 7 | 0 | 15 | 0 |
1986 | 6 | 0 | 5 | 0 | 11 | 0 |
1987 | 5 | 0 | 4 | 0 | 9 | 0 |
通算 | 20 | 0 | 16 | 0 | 26 | 0 |
出場
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1984年09月30日 | ![]() |
![]() |
○2-1 | 森孝慈 | 日韓定期戦 | |
2. | 1985年02月23日 | ![]() |
![]() |
○3-1 | ワールドカップ予選 | ||
3. | 1985年03月21日 | ![]() |
国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ![]() |
○1-0 | ワールドカップ予選 | |
4. | 1985年04月30日 | ![]() |
![]() |
△0-0 | ワールドカップ予選 | ||
5. | 1985年06月04日 | ![]() |
名古屋市瑞穂公園陸上競技場 | ![]() |
○3-0 | キリンカップ | |
6. | 1985年08月11日 | ![]() |
神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 | ![]() |
○3-0 | ワールドカップ予選 | |
7. | 1985年09月22日 | ![]() |
![]() |
○2-1 | ワールドカップ予選 | ||
8. | 1985年10月26日 | ![]() |
国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ![]() |
●1-2 | ワールドカップ予選 | |
9. | 1985年11月03日 | ![]() |
![]() |
●0-1 | ワールドカップ予選 | ||
10. | 1986年07月25日 | ![]() |
![]() |
○2-1 | 石井義信 | ムルデカ大会 | |
11. | 1986年08月01日 | ![]() |
![]() |
●1-2(延長) | ムルデカ大会 | ||
12. | 1986年09月20日 | ![]() |
![]() |
○5-0 | アジア大会 | ||
13. | 1986年09月22日 | ![]() |
![]() |
●0-2 | アジア大会 | ||
14. | 1986年09月24日 | ![]() |
![]() |
●0-2 | アジア大会 | ||
15. | 1986年09月28日 | ![]() |
![]() |
○4-0 | アジア大会 | ||
16. | 1987年04月08日 | ![]() |
国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ![]() |
○3-0 | オリンピック予選 | |
17. | 1987年04月12日 | ![]() |
国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ![]() |
○1-0 | オリンピック予選 | |
18. | 1987年06月14日 | ![]() |
![]() |
○1-0 | オリンピック予選 | ||
19. | 1987年06月26日 | ![]() |
![]() |
○2-1 | オリンピック予選 | ||
20. | 1987年09月18日 | ![]() |
国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ![]() |
○9-0 | オリンピック予選 |
指導歴
- 1988年 奥寺康彦サッカー教室 アシスタントコーチ
- 1989年 - 1998年 プリマハムFC 監督
- 1995年 - 1996年
日本女子代表 コーチ
- 1997年 - 1999年
日本女子代表 監督
- 2000年 - 2020年 成立学園高校サッカー部 総監督
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | Lリーグ杯 | 皇后杯 | |||
1989 | JLSL | プリマハム | 6位 | 10 | 3 | 0 | 3 | 4 | - | ベスト8 |
1990 | 3位 | 15 | 15 | 5 | 5 | 5 | - | ベスト4 | ||
1991 | 3位 | 18 | 28 | 13 | 2 | 3 | - | ベスト4 | ||
1992 | 5位 | 18 | 22 | 9 | 4 | 5 | - | ベスト4 | ||
1993 | 6位 | 18 | - | 10 | - | 8 | - | 準優勝 | ||
1994 | L | 3位 | 18 | - | 12 | - | 6 | - | 優勝 | |
1995 | 優勝 | 18 | - | 18 | - | 0 | - | ベスト4 | ||
1996 | 準優勝 | 18 | - | 16 | - | 2 | 準優勝 | ベスト4 | ||
1997 | 3位 | 18 | - | 15 | - | 3 | 優勝 | 準優勝 |
脚注
参考文献
- 「THIS IS MY SOCCER LIFE 63」『サッカーダイジェスト』1985年4月号
- 「28歳でユニフォームを脱いだ名ディフェンシブ・ハーフ」『イレブン』1988年9月号
外部リンク
- 宮内聡 - National-Football-Teams.com
- 宮内聡 - Soccerway.com
- 宮内聡 - WorldFootball.net
- 宮内聡 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 宮内聡 - FIFA主催大会成績
- プロフィール - ジャパンサッカープロモーション
固有名詞の分類
- 宮内聡のページへのリンク