第55回全国高等学校サッカー選手権大会
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第55回全国高等学校サッカー選手権大会(だい55かいぜんこくこうとうがっこうサッカーせんしゅけんたいかい)は、1977年1月に行われた、全国高等学校サッカー選手権大会である。
- 1 第55回全国高等学校サッカー選手権大会とは
- 2 第55回全国高等学校サッカー選手権大会の概要
第55回全国高等学校サッカー選手権大会(昭和51年度)
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「井田勝通」の記事における「第55回全国高等学校サッカー選手権大会(昭和51年度)」の解説
落合 →(成島) 宮本 有ヶ谷 三浦 宮原 杉山実 杉山誠 八木 神保 杉山茂 森下 1977年1月8日、昭和51年度全国高等学校サッカー選手権大会決勝、浦和南高校戦のメンバー。 井田は「テクニックには頼るが、スピードには頼らない」という方針の下に選手を育成した。ゆったりとしたペースでパスを丁寧に回し、ドリブルで相手を抜き去る事で攻撃を組み立てゴールに迫るサッカーは、個人能力以前にスピードで勝負する傾向にあった当時の日本サッカーに対する強烈なアンチテーゼであり、異色な存在であった。 システムはWMシステム(3-2-2-3)を採用し、当時主流であった4-3-3の学校に対抗した。WMシステムは当時、時代遅れといわれ、スイーパーを置かない3バックでの守備には不安があるとの批判もあったという。これに対し井田はシステムに囚われず、ハーフバックに位置する杉山誠、実の双子(共に1年生)に守備を担当させた。 井田は杉山兄弟とインナー(現在の攻撃的MF)に位置する宮本昭義(3年生)と三浦哲治(2年生)の4人で構成される中盤がミスをしなければ心配ないと考えていたという。またフォワードでは右ウイングの宮原真司(1年生)は技巧的なドリブルを見せ、小柄なセンターフォワードの有ヶ谷二郎(3年生)が得点を重ねた。 静岡県予選決勝で東海大一高校を再延長戦の末に下し選手権初出場を成し遂げると、全国大会では準々決勝の古河一高校(茨城県代表)戦では1失点を許したものの、準決勝まで得点16失点1の快進撃をみせ初出場で初の決勝戦進出を成し遂げた。 決勝戦の浦和南高校では、開始1分に先制を許し前半16分までに0-3とリードを許す展開ながら、あくまでも自分達のスタイルを押し通した。後半に入り2度に渡って3得点差を許す苦しい展開から、後半30分に三浦のヘディングシュートで3-5、後半37分に宮原の個人技からシュートが決まり、4-5と1点差にまで追い詰めた。試合終盤に1点を追う展開ながらもスピードに頼らず、ドリブルを多用してじわりじわりと敵陣に迫る終盤の試合展開に、浦和南高監督の松本暁司は「心臓の音が聞こえてくるようだった」という言葉を残している。 試合は4-5で敗れ準優勝に終わったものの、静学のサッカーは、この大会では2連覇を成し遂げた浦和南高校よりも鮮烈な印象を残した。また、浦和南高との決勝戦は「史上最高の決勝戦」と呼ばれ語り草となっている。
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