官僚、政治家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/19 08:21 UTC 版)
三沢に戻った廣澤は養父から経営を引き継ぐが、1888年(明治21年)には私費で渡米している。この渡米には当時の日本の馬生産が不振であったこと、南部の畜産関係者の依頼があったことが背景にあった。廣澤は種牡馬、種牡牛、種牡豚を購入して日本へ戻り、畜産業の改良に取り組んだ。 1896年(明治29年)に馬匹調査会が発足すると委員に、翌々年には牧馬監督官に就任し、高等官に任ぜられた。こうして廣澤は一牧場主から農商務官僚として日本の畜産、牧畜政策に関わることとなる。同年に農務局が発足するとその牧馬課長に就任し日本の馬政政策の一端を担った。廣澤は1911年(明治44年)までの間、日露戦争中に設けられた臨時馬制調査委員会の委員、馬政局馬政官、第一部牧馬課長を、馬政局の管轄が陸軍省に移ってからは第三課長を歴任し、二度にわたる欧米視察を行っている。同年の第11回衆議院議員総選挙では、青森県郡部から当選を果たした。所属政党は立憲政友会である。廣澤は競馬法の必要性を唱えており、その成立に動いたが実現していない。(旧)競馬法の成立は1923年(大正12年)まで待つこととなった。在任中の1913年(大正2年)には東京獣医学校校長に就任している。 1915年(大正4年)に馬政事務嘱託として官途に復帰し、退官は1921年(大正10年)であった。この間、高等官三等(馬政局技師)に進み、退官にあたっては勅任官待遇を受ける身となった。以降は帝国競馬協会評議員などを務め、その死に際しては勲等を進められ、勲三等瑞宝章を授与されている。 会津会会員、東京競馬倶楽部名誉会員。 廣澤の後継者である長男の春彦は、日本軽種馬協会の初代会長を務めた。廣澤牧場は昭和末期まで存続し、跡地には斗南藩記念観光村が設けられている。
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「官僚 政治家」の例文・使い方・用例・文例
- あらゆる局面で彼らの期待は形式的な官僚主義に阻まれた
- 官僚制度の不可解さ
- 政府刊行物の官僚用語
- 政府の官僚化と中央集権化によってその国の経済的停滞が生じた。
- 彼は高い税金を徴収する官僚だ。
- 官僚社会の馬鹿げたこと
- 総選挙は官僚主導政治をくつがえした。
- その法律は政府をさらに官僚化させるのに役立っただけだった。
- 彼は筋金入りの官僚主義者だった。
- 彼の辞職で官僚の席に空きができた。
- 実際のところ、これは官僚支配の有力な手段なのである。
- 行政指導が広範囲に用いられることは、日本特有のやり方だと考えられている。これにより、官僚は民間に対して、ああしろ、こうしろ、ああするな、こうするな、という強い権限を法律の裏づけなしに行使することができる。
- 官僚達は大企業との強固な関係を維持している。
- 官僚は旧法規の改正に関して、成り行きを見守っています。
- 官僚.
- 町の官僚支配と戦う.
- 堅固に身を固めた官僚たち.
- 官僚機構.
- 迷路のように入り組んだ街路[官僚的形式主義].
- この職場は官僚主義すぎる.
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