安来節定席「木馬館」とは? わかりやすく解説

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安来節定席「木馬館」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 07:11 UTC 版)

木馬館」の記事における「安来節定席「木馬館」」の解説

画像提供依頼木馬館安来節舞台画像画像提供をお願いします。(2017年5月1922年大正11年)@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}昆虫展示2階部分のみとなり、1階には木馬設置され、名称も「昆虫木馬館」、ついで「木馬館」となる[要出典]。はじめは楽団が、後にレコード伴奏使っていたという。 1931年昭和6年2階から昆虫展示消えた。[要出典] 1938年昭和13年浅草オペラ流行のあとを受け、関西での流行いち早く浅草当初常盤座)に持ってきていた安来節興行中心にした常打ち小屋とする(2階部分)。以降39年続く。(当時浅草六区だけでも最大玉木座、遊楽館、松竹座大東京十二階劇場日本館、など8館ほどが安来節興行打ったが、木馬館のみ残る。) 出雲出身春子八千代清子らの大和家三姉妹等が専属として所属。他に浪曲講談漫才などを色物として入れる。 1943年昭和18年)に戦争激化のためにいったん木馬外し営業止める1945年昭和20年3月10日 東京大空襲浅草襲い六区興行街大打撃を受けるが、(前年暮に焼夷弾落ちたものの)木馬館建物幸いにも焼け残る。しかし、木馬外していた廻り舞台には何組もの戦災者が住み着いていたという。 戦後間もなくから木馬復活親子取り組む1946年秋 - 木馬復活2階も再び安来節興行する1956年昭和31年12月建物としての木馬館現在の鉄筋コンクリート2階建てになった木馬設置ここまで1階部分映画館1963年昭和38年)ごろ、安来節苦境続く。 1967年昭和42年2階大空ヒット・三空ますみ看板に、漫才若手育成中心にした興行に変わる。安来節演目一つとして続く。 1968年昭和43年1階映画館からストリップ小屋木馬ミュージックホール」になる、 1969年12月12日12月26日 フジテレビにて木馬館安来節舞台ドラマ出雲の女」が放送される。全三回。主演森光子渥美清1970年昭和45年5月 浪曲師東家楽浦要請により、1階部分浪曲定席木馬亭」となる(当初は「浪曲木馬会」)。(現在まで至る) 1976年12月29日 劇団東京乾電池旗揚げ公演。『花絵巻 江戸ずっこけ』。 1977年昭和52年6月1日28日安来節さよなら公演」。(小沢昭一永六輔田谷力三出演し、その上がりを専属座員退職金充てる。)ついに東京安来節常時公演消える。

※この「安来節定席「木馬館」」の解説は、「木馬館」の解説の一部です。
「安来節定席「木馬館」」を含む「木馬館」の記事については、「木馬館」の概要を参照ください。

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