安来節定席「木馬館」
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画像提供依頼:木馬館の安来節舞台の画像の画像提供をお願いします。(2017年5月) 1922年(大正11年)@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}昆虫の展示は2階部分のみとなり、1階には木馬が設置され、名称も「昆虫木馬館」、ついで「木馬館」となる[要出典]。はじめは楽団が、後にレコードを伴奏に使っていたという。 1931年(昭和6年)2階から昆虫展示が消えた。[要出典] 1938年(昭和13年)浅草オペラの流行のあとを受け、関西での流行をいち早く浅草(当初、常盤座)に持ってきていた安来節を興行の中心にした常打ち小屋とする(2階部分)。以降39年続く。(当時、浅草六区だけでも最大で玉木座、遊楽館、松竹座、大東京、十二階劇場、日本館、など8館ほどが安来節の興行を打ったが、木馬館のみ残る。) 出雲出身の春子、八千代、清子らの大和家三姉妹等が専属として所属。他に浪曲、講談、漫才などを色物として入れる。 1943年(昭和18年)に戦争激化のためにいったん木馬を外し、営業を止める。 1945年(昭和20年)3月10日 東京大空襲が浅草も襲い、六区興行街も大打撃を受けるが、(前年暮に焼夷弾が落ちたものの)木馬館は建物は幸いにも焼け残る。しかし、木馬を外していた廻り舞台には何組もの戦災者が住み着いていたという。 戦後間もなくから木馬の復活に親子で取り組む。 1946年秋 - 木馬が復活。2階も再び安来節を興行する。 1956年(昭和31年)12月、建物としての木馬館が現在の鉄筋コンクリート2階建てになった。木馬設置はここまで。1階部分は映画館。 1963年(昭和38年)ごろ、安来節の苦境続く。 1967年(昭和42年)2階が大空ヒット・三空ますみを看板に、漫才若手育成を中心にした興行に変わる。安来節も演目の一つとして続く。 1968年(昭和43年)1階が映画館からストリップ小屋「木馬ミュージックホール」になる、 1969年12月12日~12月26日 フジテレビにて木馬館の安来節が舞台のドラマ「出雲の女」が放送される。全三回。主演:森光子、渥美清。 1970年(昭和45年)5月 浪曲師東家楽浦の要請により、1階部分が浪曲定席「木馬亭」となる(当初は「浪曲木馬会」)。(現在まで至る) 1976年12月29日 劇団東京乾電池旗揚げ公演。『花絵巻 江戸のずっこけ』。 1977年(昭和52年)6月1日~28日「安来節さよなら公演」。(小沢昭一、永六輔、田谷力三も出演し、その上がりを専属座員の退職金に充てる。)ついに東京で安来節常時公演が消える。
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