安来節の歴史とは? わかりやすく解説

安来節の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 15:46 UTC 版)

安来節」の記事における「安来節の歴史」の解説

安来節江戸時代に「出雲節」などを基礎としていくつかの地民謡吸収しながら発達した七七七五型と、この詞型の中間七五単位くりかえしはさんだ長編口説型とがある。もとは鳥取県下でうたわれた《さんこ節》、それを長編口説化して日本海沿岸各地うたわれる出雲節》(《舟方節》)とから派生したものと考証されている。幕末期から明治初期にかけて渡部兵衛とその娘である渡部お糸大成したとされる安来節家元代々渡部お糸」を襲名し現在の家元第四代目である。流行期頻発した偽者横行などにより、現在は権威的一面強く打ち出している。他に遠藤お直などが名人として名を成したまた、レコード吹き込みにも名前が残るが、地元芸妓存在大きい。 現在は郷土芸能民謡正調としての側面強く打ち出されているが、出雲から全国的な巡業がなされ、大正期には吉本興業林正之助大阪仕掛けたブームがあった。着物の裾をまくり、赤い腰巻見えお色気で、寄席では正之助の仕掛けた諸芸バラエティ路線花形として当初扱われ添え物であった歳が変遷ししゃべくり漫才として主役躍り出る揺籃となった漫才初期大きな存在となったミスワカナ・玉松一郎ミス・ワカナ芸歴安来節スタートだったのも一例である。大阪ブーム見た根岸吉之助1922年大正11年6月それまで軽演劇出していた東京浅草公園六区常盤座安来節をかけた。その好評見た興行師大森玉木により玉木座、帝京座などで大ブーム起こし時に遊楽館、松竹座大東京十二階劇場日本館木馬館公演され地元から一座多くやってきた)、それゆえ浅草では必ずどこかで安来節かかっているといわれた。大和家三姉妹が、1923年 (大正12年)大東京十二階劇場掛け持ち出演し、そのわずか200メートルの距離を走って間に合わせようとしたが、人出多さ一時間かかったという。独特の田舎っぽさが受けて大正期には、東京・大阪の日本の二大都市安来節もてはやされのである(その名残り今でも抜群全国的知名度保っている)。かように大正から昭和初期演芸界において、安来節多大な影響残している。のちブーム去って木馬館が、1977年昭和52年6月28日にその常打ち興行終えるまで、大正時代から一貫して浅草流の安来節続いた。 なお、手品安来節取り入れた奇術師ダーク大和大和(やまと)は前述大和家三姉妹からの流れであることを示している。 また、地元では山陰放送で「安来節ハイライト集」という番組一時間番組放送されていた

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