安来節の歴史
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安来節は江戸時代に「出雲節」などを基礎としていくつかの地元民謡を吸収しながら発達した。七七七五型と、この詞型の中間に七五単位のくりかえしをはさんだ長編の口説型とがある。もとは鳥取県下でうたわれた《さんこ節》、それを長編口説化して日本海沿岸各地でうたわれる《出雲節》(《舟方節》)とから派生したものと考証されている。幕末期から明治初期にかけて渡部佐兵衛とその娘である渡部お糸が大成したとされる。安来節の家元は代々「渡部お糸」を襲名し、現在の家元は第四代目である。流行期に頻発した偽者の横行などにより、現在は権威的一面を強く打ち出している。他に遠藤お直などが名人として名を成した。また、レコード吹き込みにも名前が残るが、地元の芸妓の存在も大きい。 現在は郷土芸能(民謡正調)としての側面が強く打ち出されているが、出雲から全国的な巡業がなされ、大正期には吉本興業の林正之助が大阪で仕掛けた大ブームがあった。着物の裾をまくり、赤い腰巻が見えるお色気で、寄席では正之助の仕掛けた諸芸バラエティ路線の花形として当初扱われ、添え物であった萬歳が変遷し、しゃべくり漫才として主役に躍り出る揺籃となった。漫才初期に大きな存在となったミスワカナ・玉松一郎のミス・ワカナの芸歴も安来節スタートだったのも一例である。大阪のブームを見た根岸吉之助は1922年(大正11年)6月、それまで軽演劇を出していた東京浅草公園六区・常盤座に安来節をかけた。その好評を見た興行師大森玉木により玉木座、帝京座などで大ブームを起こし、時に遊楽館、松竹座、大東京、十二階劇場、日本館、木馬館で公演され(地元から一座が多くやってきた)、それゆえ浅草では必ずどこかで安来節がかかっているといわれた。大和家三姉妹が、1923年 (大正12年)大東京と十二階劇場を掛け持ち出演し、そのわずか200メートルの距離を走って間に合わせようとしたが、人出の多さに一時間もかかったという。独特の田舎っぽさが受けて、大正期には、東京・大阪の日本の二大都市で安来節はもてはやされたのである(その名残りで今でも抜群の全国的知名度を保っている)。かように大正から昭和初期の演芸界において、安来節は多大な影響を残している。のちブームが去っても木馬館が、1977年(昭和52年)6月28日にその常打ち興行を終えるまで、大正時代から一貫して浅草流の安来節は続いた。 なお、手品に安来節を取り入れた奇術師ダーク大和の大和(やまと)は前述の大和家三姉妹からの流れであることを示している。 また、地元では山陰放送で「安来節ハイライト集」という番組が一時間番組で放送されていた
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