学問と思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 04:41 UTC 版)
「疑古」も参照 1926年の『古史辨自序』で、自身の半生と思想形成の過程を語っている。 幼少期は、父と叔父の書架に『東華録』『皇朝掌故叢編』が並び、祖父母から『山海経』などの伝説・神話を聞くといった環境で育ち、7歳頃には小説や簡単な古書が読めるようになり家庭と私塾で四書五経を習う。11歳の頃『綱鑑易知録(中国語版)』を読み、『通鑑綱目(中国語版)』の権勢に媚びた歴史の書き方に反発する。梁啓超の言論に動かされ救国の責任を自覚したのもこの頃である。1905年発行の『国粋学報』の中で劉師培・章炳麟の論文に接し、過去の中国に多くの錯雑した学派があったことを知る。16歳の時に『国朝先正事略』を読み、閻若璩が古文尚書を偽作と断じているのに興味を持つ。 予科に入学した頃に芝居観劇に熱中し、物語の構成は史書から講談・芝居へと移し替える際に読者や観客の喜ぶように改変されること、荒唐無稽の中にも一定の法則があることに気づく。同じ頃に章炳麟の影響を受けて、今文学派が孔子を教祖として扱っていることに反対し、史書を見る目で六経を認識するようになる。さらに章炳麟が今文学派の「通経致用」を攻撃したことは、学問探求を実用の範囲にとどめず「無用」の研究に邁進させる励みとなった。 1916年からは、蔡元培・陳独秀・黄遠庸による思想革命・学術改革の気運に乗り、1917年に北京大学に赴任した胡適の教えにより今までに書かれた上古史は信頼できないという以前からの確信を強められた。1918年に休学している時、劉復の歌謡収集に刺激され研究の範囲を方言・ことわざ・謎・唱本・風俗・宗教へと広げることになる。 1920年に胡適から姚際恒について尋ねられたのがきっかけとなり、偽書から偽史の検討へ入る。そこで康有為の『孔子改制考』に啓発され上古史への古文学派の牽強付会を斥け、同時に今文学派が犯した学問と政策の混同を避けるという、公平かつ実証的な方針を確立した。その過程で鄭樵・崔述・羅振玉・王国維などの先人の業績を再評価している。この研究は考古学・歴史学・民俗学の知識を総覧し統合するという前人未踏の課題を含み、1926年創刊の『古史辨』として結実した。
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