学問と業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 10:58 UTC 版)
「アレクセイ・オクラドニコフ」の記事における「学問と業績」の解説
1928年からイルクーツク地方の古文書を研究し、レナ河上流とザバイカル地方の考古学的調査を行った。この時にまた、ロシア人が進出するまでの西ブリヤート族、エヴェンキ族に関する古文書・民族学的資料を収集した。1926~31年のレナ河上流とセレンガ河下流域の調査で、新石器時代と青銅器時代の遺跡として有名になるファファノヴォの墓を発見する。1928年にシシキノの岸壁画を調査してからは、この方面への注意を深め北アジア岸壁画という研究分野を創始し、考古学と民族学の総合という特徴を持つ「オクラドニコフ的解釈法」が成立したのもこの時期という。 1932年にはイルクーツクからブラーツクまでのアンガラ河岸の約600キロを調査し、主として新石器時代と青銅器時代の埋葬を確認した。1935年に東部シベリアとはまったく異質の文化であるアムール川下流域を調査する機会があり、半地下式の住居址を認める。1936年から翌年にかけてはアンガラ河下流域1200キロを踏査、北アジアの上部旧石器時代遺跡として有名になるプレチが発掘された。 1938年、中央アジア考古学者ミハイル・マッソンに招かれてテルメズ考古学調査団に参加し、ウズベキスタンで中部石器時代の遺跡として知られるテシク・タシュ洞窟とアミル・テル洞窟を発見した。1940年~45年にレナ川の源流から5000キロを踏査して、この流域に旧石器時代の遺跡があること、森林狩猟民の新石器文化は北ユーラシア全域におよんでいたことを明らかにした。
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