大衆民主主義・婦人解放の前進とファシズムのめばえ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)
「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「大衆民主主義・婦人解放の前進とファシズムのめばえ」の解説
詳細は「クー・クラックス・クラン」、「排日移民法」、「ベニート・ムッソリーニ」、および「ファシスト党」を参照 総力戦を戦うなかで、各国政府は全国民に戦争遂行への協力を要求した。そのため、戦後になると、戦時中の公約にしたがって、女性をふくむ参政権の大幅な拡大が多くの国で実現した。大戦前に婦人参政権のあった国はニュージーランド、オーストラリア、フィンランド、ノルウェーの4か国にすぎなかったが、大戦後は戦争における女性の貢献への報酬として、多くの国で参政権があたえられた。この時期には日本でも平塚らいてうや市川房枝を中心に婦人参政権運動が展開された。 また、社会主義国との対抗上、資本主義諸国も雇用を安定させ、福祉を充実させることが求められた。1923年、イギリスでは総選挙がおこなわれたが、政権党だった保守党が過半数に達せず、労働党のラムゼイ・マクドナルドが政府不信任動議を出し、自由党の閣外協力を得て初めて組閣した。これによって、イギリス初の労働党内閣が誕生した。 しかし一方では、主義・主張、人種や民族の違いを理由に暴力に訴える風潮もめばえてきた。 南アフリカのアパルトヘイト、オーストラリアの白豪主義に加え、アメリカ合衆国では白人の優越を説く秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)が1915年に再建され、その活動が再燃して20年代には数百万の白人が入会していた。また、1921年、米国連邦議会は俗に「移民割当法」(Quota Immigration Act)と称される法案を成立させ、1910年国勢調査における各国別生まれの居住者数を算出し、以後の移民はその割合に比例した数でのみ認められるとした。なお、アメリカにおける日本人(日系人)の移民活動は日米紳士協定に基づいた日本の自主規制と州レベルでの排斥活動の間で微妙なバランスを保ちつつ進行していたが、1924年には、反東洋系色の強いカリフォルニア州選出下院議員の手によって「帰化不能外国人の移民全面禁止」を定めた第13条C項が追加され、いわゆる「排日移民法」がアメリカ合衆国連邦議会で成立した。 戦後の混乱がつづくイタリアでは、戦勝国でありながら、期待していたフィウーメなどの領地が得られず、ヴェルサイユ体制に強い不満をもつ人も少なくなかった。経済危機も深刻で、ロシア革命の影響も受けて、ストライキや農民の土地闘争がひろがり、社会主義勢力が拡大した。 1919年、ベニート・ムッソリーニが、革命阻止、国粋主義の立場で「イタリア戦闘者ファッショ」を組織し、中産階級や資本家、地主層などの支持によって勢力を拡大して、1921年に政党ファシスト党を結成、1922年のローマ進軍によって政権を握った。ムッソリーニは1924年にはフィウーメを獲得し、1926年には社会党など他の政党を禁止し、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世をはじめとするイタリア王室、軍部、財界などの支持を得て一党独裁の体制をととのえ、1927年にはアルバニアを保護国とし、強力な統制経済によって経済危機をのりこえようとした。 ファシズムにおける独裁は、資本主義の危機的状況に対応して現れたものであり、従来の独裁政治とは、大衆的な基盤を有する点で性質を異にしていた。
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