大衆文学研究
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日夏耿之介は「明治煽情文芸概論」で、大衆文学(ポピュラー・リテラチュア)に「民衆的なるもの」「民情に媚態を呈したもの」の二様があると述べ、その分類を冒険小説、探偵小説、伝奇小説、家庭小説、政治小説としてみせた。木村毅『大衆文学とジャーナリズム』(1931)、『大衆文学十六講』(1933)、千葉亀雄、中谷博『早稲田精神』(1940)、伊集院斉『大衆文学論』(1942)などの研究書も現れ、1932年から1934年に吉川英治が、それまで大衆文学批評と言えるものが無かったという認識のもの、大衆文学研究誌『衆文』を発行。笹本寅の『大衆作家列伝』連載、佐々木味津三、直木三十五の追悼号、夢野久作、三角寛などの小説が掲載された。また三田村鳶魚『大衆文芸評判記』(1933)では、時代考証の立場から当時の人気作品に厳しい批判が加えられた。 1956年に講談倶楽部賞受賞者などによる同人誌『小説会議』が生まれ、これに伊藤桂一に勧められて尾崎秀樹が大衆文学論を書き始めた。尾崎は続いて1961年に、武蔵野次郎らと大衆文学研究会を設立し、雑誌『大衆文学研究』を発行、創刊号で、白井喬二はエッセイを寄稿し、大衆文学は「文学の主権在民」をめざしてスタートし、「文学の因習打破」が根本命題であると述べ、司馬遼太郎は「土佐ノ稲荷の桜のイノチそのものに眼をむけて文学の重心をそこに鎮めてゆく」のが純文学、「そこから離れて、花をみる大衆の条件にあわせて書く」のが大衆文学であると書いた。 フランスの大衆小説は、過去には下位文学(sous-littérature)、インフラ文学(infra-littérature)、マス文学(littérature de masse)などの名で呼ばれ、1960年代以降には二次文学(paralittérature)、別類文学(autre-littérature)といった概念を用いて体系化が試みられた。1980年代以降、大衆小説研究誌『Le Tapis-franc』『ロカンボル(Le Rocanbole)』などで研究がなされている。
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