大虐殺派・虚構説・中間派
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「南京事件論争史」の記事における「大虐殺派・虚構説・中間派」の解説
1982年、洞富雄が『決定版 南京大虐殺』を刊行すると、洞は本多とともに「大虐殺派」と見なされるようになった。洞・本多らは1984年3月に南京事件調査研究会を発足し、「史実派」と自称した。1984年7月、中国の南京市文史資料研究会が編集した被害証言集が日本に翻訳された(『証言・南京大虐殺』加々美光行 姫田光義共訳、青木書店)。 1983年9月、田中正明が雑誌『諸君!』で「"南京虐殺"・松井石根の陣中日誌(未発表資料) 」発表。1984年6月、田中は『"南京虐殺"の虚構 : 松井大将の日記をめぐって』(日本教文社)刊。同10月、田中は文芸春秋に「朝日新聞に拒否された五通の反論」を掲載するなど、田中は虚構説を精力的に発表し否定派を代表するようになっていき、また論争も活発化した。 しかし、田中が1985年5月に刊行した『松井石根大将の陣中日誌』(芙蓉書房)を、板倉由明が陣中日誌原本と比較した結果、600箇所以上の変更ないし改竄を行い、南京事件虚構説の方向での注釈を付記していたことを発見した。板倉は大虐殺には懐疑的な立場であったが「改竄は明らかに意図的なものであり弁解の余地はない」として田中を非難した。本多勝一も朝日新聞で報道した。 1985年、藤原彰が『南京大虐殺』(岩波ブックレット)刊。藤原の弟子の吉田裕も『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店)刊。吉田は虐殺の定義についても、便衣兵処理について、戦争当時の国際法学者立作太郎もゲリラや変装した軍人は戦時重罪であるが、軍事裁判所で審問すべきであるとしており、戦時国際法違反であり、「不法殺害」を「虐殺」とするので、「虐殺」は疑問の余地がないと論じた。板倉由明は、戦争ではどこの軍も悪いこともしたし、日本軍も悪いことをしたが、「日本人の軍隊だけが世界に希な残虐な軍隊であったと日本人が吹聴して回る必要はない」と吉田の本を書評した。吉田は歴史に対する痛覚を欠いた傲慢な議論であり、高度成長を経た日本の「大国主義ナショナリズム」だと反論した。 洞富雄は1986年『南京大虐殺の証明』(朝日新聞社)で田中正明、板倉由明、畝本正巳、渡部昇一、山本七平、畠中秀夫、阿羅健一の「南京大虐殺虚構説」を批判した。この年、「中間派」と自称する秦郁彦 が『南京事件』(中公新書)を刊行し、それまでの論争のありかたに危惧を抱いていると述べ、このままでは歴史的真実の究明はどこかに押しやられ、偏見や立場論が先走った泥仕合になってしまうおそれがあるとし、「南京事件は東京裁判いらい、日中関係の変転を背景に、歴史学の対象としてよりも政治的イシューとして扱われてる不幸な運命を担ってきた」と主張した。 2年前に板倉由明や本多勝一から松井大将日記の改ざんを指摘されていた田中正明は、1987年3月に刊行した『南京事件の総括―虐殺否定の論拠』(謙光社)後書きで、不注意による誤植や脱落はあったが、松井の文は難解で仮名遣いを変更したと弁明し、意図的な改竄や、虐殺事件の隠蔽はしていないとしたうえで、朝日新聞や虐殺派は「ありもせぬ20万、30万の“大虐殺”がさもあったかのごとく宣伝し著述」することこそが歴史の改ざんだと反論し、南京市文史資料研究会編の『証言・南京大虐殺』の被害者証言もでたらめがあるとして批判した。また田中は洞、藤原彰、吉田裕らは中国共産党のプロパガンダ通りの主張であり、また秦郁彦は「東京裁判史観」を展開しており、4人は反面教師でその偏見と歪曲を徹底的に批判し反論することができたと述べた。 洞富雄、藤原彰、本多勝一らは1987年8月、1988年12月、1992年4月と事件の研究を報告した。 大虐殺派、虚構派、中間派の各派については「南京事件論争#各派の主な論者とその特徴」を参照
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