大学昇格への道
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この時点では制度上旧制専門学校であった日本大学が大学令による制度上の大学(旧制大学)に昇格したのは、1920年(大正9年)4月16日である。そして、専門学校令準拠の日本大学は在籍者の卒業を待って1922年度いっぱいで廃止された。
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大学昇格への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:00 UTC 版)
1918年(大正7年)の大学令公布を受けて早慶をはじめとする多くの私学が大学昇格運動に着手したが、立命館はその対応が遅れた。 もともと中川小十郎は大学令による昇格に対して消極的な考えを抱いていた。中川は1917年(大正6年)7月に行われた第15回卒業式で「本学の講義は京都帝国大学教授諸君の担任せらるる所」であり、「其の講義は実質に於て大学の講義」であるから、大学令準拠の大学となるために「証拠金を積み立てる必要もなければ、又大学の教授方よりも劣等なる専門教授を置く必要は全然ない」と述べた。さらに1919年(大正8年)11月22日の創立20周年記念祝賀式でもほぼ同様の見解を示し、京都帝大の講義を開放・拡張する存在としての立命館の特殊性を維持することにこだわり続けた。 しかし、校友たちは学校当局の消極的な態度に納得しなかった。創立20周年記念祝賀式の翌日に母校創立20周年記念校友大会が開かれ(78名出席)、校友会の組織化と全国化が始まる。翌年4月には学校側と校友側の代表による懇談会が開かれ、さらに5月の校友総会で昇格運動とその後の大学経営に校友代表も関与すべきことを決議した。 時勢ニ鑑ミ母校ノ昇格ヲ期ス 昇格ニ必要ナル基金ハ校友会ノ協力ニ依リ之ヲ募集ス 母校財団ニ対シ次ノ希望ヲ表明スル「財団理事、監事、協議員ニ大学、中学校卒業生若干ヲ選任スルコト」 維持員、商議員制度ヲ設ケ母校功労者ヲ推薦スルコト 大学昇格のために必要とされた45万円については中川小十郎が10万円、中川の知己が10万円、校友側の評議員が10万円、一般から15万円を募ることとし、1920年(大正9年)9月17日には文部省に大学設立申請書を提出するところまでこぎつけた。同省の内部事情で審議が長引いたこともあって大学令による立命館大学の設立が認可されたのは1922年(大正11年)6月5日で、1923年(大正12年)4月に予科が、1925年(大正14年)4月に法学部(法律学科・経済学科)が発足した。そして、従来からの立命館大学専門部は1923年(大正12年)2月に専門学部に改組され、専門学校令準拠の立命館大学は1925年(大正14年)1月7日をもって廃止された。
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大学昇格への道
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1919年(大正8年)2月に第3代学長に就任した後藤新平が最初に直面した難題は大学令による拓殖大学の昇格問題であった。それまで「大学」を称していた私立の専門学校が大学令準拠の大学として認められるためには学校組織を財団法人とすること、1校につき最低50万円の供託金を納付すること、高等学校と同一水準の予科を設置すること、相当数の専任教員を確保すること、教育研究上必要な設備(校舎や図書館など)を整備することなどの過酷な条件を満たすことが求められた。とりわけ最大の難関とされたのは供託金問題であったが、後藤は目標額の50万円を調達するために台湾の各精糖会社に協力を依頼し、目標どおりの資金を確保することができた。 塩水港精糖から20万円 東洋精糖から7万5千円 台湾製糖から7万5千円 大日本製糖から7万5千円 明治製糖から7万5千円 大学令による東洋協会大学の設立認可申請は1920年(大正10年)11月11日に行われ、ほぼ1年半の審議を経て1922年(大正11年)6月5日に認可された。これにより1922年4月入学の1年生はただちに東洋協会大学の予科1年に編入されたが、従来からの専門学校令準拠の拓殖大学は在籍者が全員卒業するまで存続することになったため、校門には「東洋協会大学」と「拓殖大学」の2つの門標が1925年(大正14年)3月まで掲げられた。 東洋協会大学には適当な略称がなかったため、校名を再び拓殖大学に戻すべきだとの声が上がり、1926年(大正15年)7月1日の評議員会で校名変更決議を満場一致で可決、同年12月8日に文部省の認可を受け、東洋協会大学時代はわずか4年半で終わった。
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