大学方式への転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:45 UTC 版)
マセソンから、ランキンによる人選、ヘンリー・ダイアーを筆頭とした教師団の編成はすべて西洋の大学方式への転換していた。グラスゴー大学教授のウィリアム・ランキン (William Rankine) を通してヘンリー・ダイアー (Henry Dyer) を都険(実質的な校長)とする教師団が推薦された。1860年代末、ランキン教授はウィリアム・トムソン (William Thomson) 教授とともにグラスゴー大学に工学部を新設しようと奔走し、ダイアーはランキン教授の下で技術者教育学を専攻していた。ランキン教授の計画は叶わなかったが、代わりに師の考えをダイアーは日本で実現しようとした。 岩倉使節団に同行していた林董が、1873年、スコットランドで教師団任用契約の手続きを行い、同地から日本までの船旅の同伴の任に当たった。ダイアーは小学校を別個に開くのはやめて、大学校を基礎課程、専門課程、実地課程(各2年)の3期6年制とし、土木、機械、造家(建築)、電信、化学、冶金、鉱山、造船の6学科とする学則・シラバスを作成した。教育内容は、1871年にロンドン近郊に開学していた王立インド工学校 (Royal Indian Engineering College) と同じように半年ずつ講義と実習を交互に行うサンドウィッチ方式とし、また、実地課程のために赤羽工作分局を併設させた。
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