明治後期の「学校令」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 15:42 UTC 版)
森の死後、各「学校令」は部分的あるいは全面的な改正、また追加的な法令の公布を通じて次第に体系的に整備されていった。まず、1890年に市制・町村制の施行および府県制・郡制の公布がなされ地方自治制度が確立すると、これらの地方公共団体を設置者とする小学校制度の改革が必要になり、同年10月、小学校令は全部(全面的)改正(第二次小学校令)され、初等教育の運営が明確化された。続いて中学校制度の一部とされていた高等中学校が1894年6月の高等学校令によって中学校とは制度的に分離した別種の学校(高等学校)として位置づけられ、あわせて大学(帝国大学)への進学課程としての性格を付与されたが、なおしばらく制度的混乱が続いた。1897年10月には師範学校令が廃止されて師範教育令が公布され、初等教員養成の師範学校、中等教員養成の高等師範学校・女子高等師範学校という役割分担が確立された。1899年2月には中学校令の全部改正(第二次中学校令)および高等女学校令・実業学校令の公布がなされ、戦前における旧制中等教育の原型が形成された。また同年8月の私立学校令では私立学校全般に対する国家の統制が制度化され、1903年3月の専門学校令では帝国大学・高等学校以外に数多く存在していた官・公・私立の高等教育相当の諸学校が専門学校として制度化されて帝国大学に次ぐ地位を与えられ、その後の大学昇格への道が開かれることとなった。かくして明治30年代までにいわゆる「旧制」の教育・学校体系の基本型が成立した。
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