大ベルリンへの歩み
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産業革命が始まって以来、特に1871年のドイツ帝国成立以降、産業化が高度に進展する中、ベルリンの人口は増加の一途をたどっていた。ベルリンはプロイセン王国とドイツ帝国の首都であり、近隣自治体との境界付近の空地は、従来、専ら農業用地として利用されてきたが、次第に住居や工業用地としての需要が高まっていった。 既に1820年以来、ベルリン市域の拡大が議論されてきた。郊外のモアビート(ドイツ語版)、ヴェディング(ドイツ語版)、ティーアガルテン(ドイツ語版)、南部ではシェーネベルク(ドイツ語版)、テンペルホーフ(ドイツ語版) の農地をベルリンに編入しようというのである。ベルリンと周辺地域は、各々の短期的な自益を代弁するばかりであった。ニーダーバルニム郡(ドイツ語版)は、モアビートとヴェディングの編入に賛成であったが、その理由は同地区の社会保障関連支出が郡財政を圧迫していたためであった。これに対してテルトウ郡(ドイツ語版)は、シェーネベルガー・フォアシュタット(ドイツ語版)とテンペルホーファー・フォアシュタット(ドイツ語版)の編入に反対であった。なぜなら当地の市民階級が、郡にとって重要な税収源であったためである。ベルリン市議会は、財政的に脆弱な労働者地域、モアビートとヴェディングの編入を拒否する一方、裕福なシェーネベルクとテンペルホーフ地域に対しては非常に興味を示した。40年にわたる地方政治の不毛な議論の末、1860年1月28日のプロイセン王国閣議決定により、これらの領域は翌年1月1日付でベルリンに編入されることになった。 都市と周辺地域は利害が対立していたため、これをまとめるために上級市長アルトゥール・ホーブレヒト(ドイツ語版)は1875年に提言を行った。ベルリン、シャルロッテンブルク(ドイツ語版)、シュパンダウ(ドイツ語版)、ケーペニック(ドイツ語版)の各都市と、テルトウ郡(ドイツ語版)、ニーダーバルニム郡(ドイツ語版)から「ベルリン州 (Provinz Berlin)」を新設しようというのである。また前記2郡の利益に配慮し、ベルリンは2郡を合併しない、とされた。しかしこの計画は都市と州のそれぞれの議会、さらに2郡からも拒否された。プロイセン王国政府も、プロイセンの中核をなすブランデンブルク州(ドイツ語版)からの首都圏分離に関心を示さなかった。 1890年代以降、総合的な都市計画や交通計画の不備、自治体の財政負担の不均衡が再び俎上にのるようになった。南部と西部にある郊外は裕福で、富裕層のおかげで社会福祉関連支出が少なく、減税が可能であったのに対して、中心部と東部の郊外はその逆であった。 1906年1月、行政建設官(ドイツ語版)エマヌエル・ハイマン(Emanuel Heimann)、建築家アルベルト・ホーフマン (Albert Hofmann)、建築監督官(ドイツ語版)テオドール・ゲッケ(ドイツ語版)らは「ベルリン建築家連合 (Vereinigung Berliner Architekten)」で、統一基本計画の構想懸賞競技を開催した。ベルリン建築家協会(ドイツ語版)と協力して、同年中に「大ベルリン建築家委員会 (Architekten-Ausschuß Groß-Berlin)」が、枢密建築監督官オットー・マルヒ(ドイツ語版)を委員長に設立された。1907年には「大ベルリンの都市計画的発展のための基本計画を求める提言 (Anregungen zur Erlangung eines Grundplanes für die städtebauliche Entwicklung von Groß-Berlin)」を発表し、統一的な地区詳細計画を推奨し、基本方針をまとめた。その後、国際的に「大ベルリンの地区詳細計画のための基本計画設計競技 (Wettbewerb um einen Grundplan für die Bebauung von Groß-Berlin)」、略して「大ベルリン設計競技」が発表され、開催期間は1908年から1909年12月とされた。締め切り間際にプレゼンテーションは「一般都市計画展 (Allgemeine Städtebau-Ausstellung)」へと拡大され、シャルロッテンブルク造形美術学校にて1910年5月から6月まで開催された 。当選したのはヘルマン・ヤンゼン、ヨーゼフ・ブリックス(ドイツ語版)、フェリックス・ゲンツマー(ドイツ語版)によるグループの構想であった。これは高架鉄道会社(ドイツ語版)、ブルーノ・メーリング(ドイツ語版)、ルドルフ・エーバーシュタット(ドイツ語版)、リヒャルト・ペーターゼン(ドイツ語版)との共作である。大ベルリン目的連合(ドイツ語版)(法律1911年7月19日)が設立され、いくつかの問題を解決しようと試みたが、この他にも「赤い」ベルリンがプロイセン、またドイツ帝国の政治で大きな影響力を持たないようにすることも課題であった。しかしこの目的連合は法的拘束力が非常に弱く、ほとんど期待に応えることができなかった。自治体間の社会的差異は増大するばかりで、さらに問題を引き起こしたが、目的連合は社会的調整の問題に対しほとんど権限がなかった。 都市ベルリンの人口増加は20世紀が始まって以降、幾分緩やかになったが、それでも1912年には210万人に達し、最大の人口を記録した。 結果論ではあるが、第一次世界大戦とドイツ革命によるドイツ帝国の崩壊よって、ついに大ベルリンが政治的に現実のものとなった。なお目的連合が成し遂げたものには、1915年の永続森林契約(ドイツ語版)による、そして今日にも残るベルリン周辺部の広大な森林が挙げられる。
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