外宮領・陸曳
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外宮の用材を奉曳車に積み、宮川河畔から伊勢市内を通り外宮境内まで約2kmを曳く。(一日神領民は途中の宮町から出発する約1kmの行程)コースは、旧参宮街道(大半は現在の県道伊勢南島線)である。第62回における発着場所は下表のとおりである。 祭事名 出発場所 木を納める場所 御樋代木奉曳式 度会橋東詰 五丈殿 御木曳初式 宮川河川敷 五丈殿(正宮)、各別宮 御木曳行事(地元) 宮川河川敷 山田工作所内貯木池 御木曳行事(一日神領民) 宮町交差点 外宮北御門 奉曳車は、御樋代木奉曳式・一日神領民の奉曳には伊勢神宮奉仕会が製作し神宮に献納したものが用いられる。御木曳初式と一般曳と呼ばれる地元旧神領民の御木曳行事では、各奉曳団所有のものが用いられる。欅で車体と車輪を作り、心棒は樫で作ることが多い。軸受はボールベアリングなどは用いないすべり軸受のため、木材同士の摩擦が大きく椀鳴り(わんなり)という独特の摩擦音をだす。法螺貝のような低く大きな音が響くのが良好とされる。摩擦の調整のために、ほとんどの団が軸受にチョークを入れるが、油をさす団もある。神宮の奉曳車は、鳥居、榊と絵符(えふ・高札のような形状で団名などを記載する。神宮の奉曳車には「太一」と記されている。)があるだけのシンプルなものであるが、奉曳団のものでは、櫓や屋台を組み提灯や紅白幕などで華やかに装飾しているものが多い。 奉曳車に長さ100 - 500mの綱を繋ぎ200 - 5,000名の曳き手が奉曳する。奉曳車周辺には、団長・進行責任者・大工のほか、奉曳車後方に繋がれた別の綱で進行方向を制御する梃子方がいる。団長は奉曳車の直前、2本の綱の間で両手で綱を持っていることが多い。大工は、主として軸受の摩擦の調整を行う。摩擦が小さいと椀鳴りの音がしなくなり、大きすぎると心棒が焼けてしまう。川曳同様木遣子がいるが、采に取り付ける幣は和紙で作る。また、奉曳車に乗る本木遣(ほんきやり)という者がおり、出発前やエンヤ曳前の木遣を行う。そのとき用材の上に立つ形になるが、用材に直接足を乗せないように、用材の上に足場が設置されている。 御木曳初式と一般曳では、河川敷の関場で預かった用材を橇に載せ一度宮川に漬けた後、再び曳き上げ堤防を越えるときにシーソーのように橇を揺らすどんでんという行為を行う。もともと、宮川を遡った用材を曳き上げて水切りを行ったことを再現しているものといわれている(但し、外宮棟持柱については直接奉曳車出発場所まで運ばれ、どんでんを行わない)。その用材を宮川右岸の中島町内に待機している奉曳車に移し替え出発する。3本奉曳する団では、下の2本は通常前夜のうちに積み終えている。ただし、2年次最終の奉曳を受け持つ出雲町奉曳団は「川浚(かわざらい)」と称し、用材を積んだ3台の橇を連結し奉曳当日に3本積んだ。 奉曳途中に「練り」が行われるのは川曳同様である。曳き手の前方で伊勢音頭や太鼓等が披露されることもある。 奉曳の最終段階、県道から交差点を曲がり外宮北御門までを勢いをつけて一気に進むことをエンヤ曳という。奉曳中に参加者が走るのは、通常どんでん場からの下りこみとこれだけである。古くは北御門曳き込み後、境内の火除橋を渡るルートであって、同橋は反り橋であるので、勢いをつけていたものである。(同様に反り橋であった筋向橋でも、古くはエンヤ曳が行われていた。1915年に平坦な橋となった以降は行われなくなったが、第62回2年次のお木曳において復活させた奉曳団があった。)同所には見物人も多く、奉曳団にとっては最大の見せ場となるが、方向制御に失敗し電柱やフェンスに衝突することもある。第62回1年次においては、雨天も多かったためエンヤ曳を断念した団や、交差点で方向転換した後直進のみのエンヤ曳を行った団も多かった。 御樋代木奉曳式・御木曳初式での木の納め方は、内宮領と同様である。地元の御木曳行事では、神宮山田工作場内にある貯木池に木を納める。その場所にはスロープが設置されており、奉曳車から途中までは慎重に降ろされるが、最後は解放され勢いよく池にはめられる。
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