増村保造と三島由紀夫
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「からっ風野郎」の記事における「増村保造と三島由紀夫」の解説
増村保造と三島由紀夫は、東京帝国大学法学部の同期生で、1944年(昭和19年)に法学部25番教室で初めて出会った。特に親しい交友関係はないが、顔見知りであった。増村と三島が初めて言葉を交わしたのは、戦争末期の1945年(昭和20年)5月から勤労動員された神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠の寮においてだった。 私が三島さんと初めて会ったのは昭和十九年十月、東大法学部二十五番教室の中であった。太平洋戦争が終る前の年で、二人とも一年生だったが、三島さんはいつも教室の最前列に坐り、熱心に講義のノートを取る勤勉で明るい大学生だった。彼と初めて話したのは、勤労動員で陸軍のために毎日土堀りをやらされた翌年の五月、神奈川の堀立ての丸太小屋の中だった。既に小説家として知られていた三島さんは、明るく熱心に英国の詩人キーツなどを話題にして私たちと快活に真剣に話し合った。その丸太小屋から出征した私は、終戦後再び大学に戻ったが、選んだ課目やコースが違ったためか、三島さんと会うことも話すこともなかった。 — 増村保造「三島由紀夫さんのこと」 三島と疎遠になってしまった戦後は、増村は大学卒業後に大映に助監督として入社し、再び東大の哲学科に入学した。また、イタリア国立映画実験センターに留学するなど、勉強熱心で、理論派系、芸術家肌、職人気質でもあり、溝口健二や市川崑に師事した後、1957年(昭和32年)に監督に昇進となった。 増村と三島は約15年ぶりに『からっ風野郎』の撮影前に大映多摩川撮影所で再会した。顔見知りの2人が映画の打合せをし、三島がスチールの撮影に応じている時は、増村の三島への厳しいしごきが始まるとはスタッフも予想できなかった。撮影現場での過剰な三島へのしごきは、会社の企画に対する不満の表れか、あるいは三島への対抗意識か、等々という噂が流れた。 増村監督があんまりきびしくビシビシやるので、三島さんとの間にいろいろまずい感情の衝突やトラブルがあったのではないか、というような噂だが、私をして言わしめれば、増村が、どこか無意識のうちに自分は監督だぞ、という意識をもってエキサイトしておったのではなかろうか。普通の単なる学生とか、どこかのサラリーマンを引っぱってきたということなら、彼もエキサイトしないのだが、相手が大学の同級の三島由紀夫、しかも今をときめく文壇の鬼才だということが、彼自身の頭から抜けなかったのだろう。それが言動の上にも現われた。 — 永田雅一「俳優三島由紀夫論」 市川崑は、「ワキ役に使うならともかく、三島さんの主役作品を引き受けるなんて、ずいぶんソソっかしい」と増村に言ったが、「ほかの人がやるよりは、僕の方が三島さんを生かせると思った。その意味で僕がいちばん三島さんを大切にしているといえるんじゃないか」と増村は自負していた。 映画が完成し、増村が大田区の馬込東(現・南馬込)の三島邸に招待された際、三島の父・梓から、「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と礼を言われた。三島に怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに逆に礼を言われた増村は、藤井浩明との帰り道で、「明治生まれの男は偉い」と、梓を褒めていたという。 三島の死後、増村は『からっ風野郎』での三島の奮闘ぶりを振り返り、「どんなにしごかれても、半日テストを繰り返されても、三島さんは不平一つ言わず、何の反抗も示さず、黙々と羊のように従順にテストをやりつづけた」と敬服し、「大部屋の端役俳優ならともかく、一流の流行作家が私に何度も怒鳴られながら、一心になって一月間芝居をやり抜いたのである」と三島の根性を讃えた。 その三島さんを見ていて、私は何と誠実で、真剣で、明るい人だろうと思った。『からっ風野郎』を撮り終って、三島さんの家に招かれて話したときも、バアに飲みに行ったときも、この三島さんの態度は全く変わらなかった。若い大学生のように快活で、素直で、真面目だった。 — 増村保造「三島由紀夫さんのこと」 増村は三島の死の2年後に、『音楽』を映画化し、三島の描いた難しいテーマを映像化することに挑んだ。
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