圓丈は何故語ったか
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「御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち」の記事における「圓丈は何故語ったか」の解説
1980年代半ばの出版界は、芸能人や著名人による業界内幕暴露本のブームであった。この本もそれに該(あた)るものではあるが、その手の読者の興味を惹くような身の下話などはなく、当時既にほぼ忘れ去られていた圓生による落語協会分裂騒動を書いたものである。著者によれば、それは執念であったという。 著者である圓丈は、1978年(昭和53年)の分裂騒動から翌年の圓生死去当時はその渦中にいながらも無名であった。しかし、落語協会復帰後は漫才ブームを足がかりに色物的新作落語家として頭角を現し、発刊当時の1986年(昭和61年)には、雑誌連載やテレビ番組のレギュラーを持つなど落語家としての認知はともかく、芸人としての認知はある程度世間から得ていた。一方、圓丈が本書のなかで激しく糾弾している圓楽は前述の1978年(昭和53年)には既に落語界を代表する人物のひとりとして認知されており、この1986年(昭和61年)当時も分裂騒動があったにもかかわらず、『笑点』の司会者として知名度も高く世間からの評価が下がっていたわけではない。 圓生が起こした落語協会分裂騒動から圓生一門の落語協会離脱において、 圓楽が自らの野心のために師匠圓生をその方向に仕向けて担いだのにも関わらず、それを反省すること無く、さらに圓生や圓生一門を見捨てたこと。 目的達成のために様々な策を弄して同じ圓生一門の中で確執を生じさせ、結果不仲にしてしまったこと。 また圓生没後も圓生夫人と確執を起こしたこと。 等として指弾している。 落語協会という閉鎖的な組織の中に於いて右往左往しつつも嘘を弄したり泣き出したりする人間達の素顔は、私怨が籠っているゆえか迫真の描写がなされている。特に三遊亭圓楽の人物構成、語り口、観察は微細にわたり、立川談志がテレビで売れたのを批判していたのが、自分もテレビで売れるようになると前言を覆したり、落語協会脱退に関して慎重論を唱えた圓丈を敗北主義者と罵り、反論を許さなかったり、三遊協会の立ち上げに失敗した時も、寄席なんか出なくても地方に回れば仕事はいくらでもあると圓生と語るなど、無節操かつ傲慢で責任転嫁ばかりしている人物として描かれている。 圓丈は本書において圓楽の人格を厳しく批判する他、師圓生に対しても、圓楽を重用するあまり他の弟子との不和に長年気が付かなかった不明や、圓楽以外の弟子全般を信頼せず、自芸を至高とするあまり弟子の長所を伸ばす度量の広さに欠け、落語指導者としての資質にも問題が多々あったことを赤裸々に批判し、結果として250年にわたり柳派と落語界の勢力を競った三遊派本流を潰したことを決して許さないと結んでいる。なお、圓丈自身は圓生に特別目をかけられていたことで知られており、圓丈もそれは重々承知で恩に感じている上で「それでも許せない」と綴っている。 兄弟子の圓窓に対しても、圓楽に追従して他の弟弟子に不実な態度を取ったことを暴露している。一方、圓弥だけは唯一誠実で信頼できる兄弟子だったと記している。 元々圓丈は、圓弥、旭生(後の円龍)と共に落語協会に残留するつもりであったが、その決心を圓生に告げた途端、恩知らず義理知らずと圓生夫妻に激しく罵られて無理やり翻意させられたため、この時から圓生を師と思う心が死んでしまったと述べている。また圓生一門が落語協会を脱会した際「全員一致で脱会を決意、団結を誓い合った」と新聞に書かれていたのを読んで、新聞記者の誰一人としてまともな取材をせずに記事にしたと憤りを表している。 その後、圓丈は文庫化の際に加筆されたあとがきにおいて、前述の翻意させられた際のトラウマから「圓生恐怖症」になったとし、この本を書いたのはそれから抜け出すためであったと述べている。圓生を違った目で見つめなおした結果、今は長所も短所も持ち合わせた一人間としての師・圓生のことを「大好き」であり「尊敬している」という。
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