国立セーチェーニ図書館の創設
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「セーチェーニ・フェレンツ」の記事における「国立セーチェーニ図書館の創設」の解説
その一方でフェレンツは新しい秘書ティボルト・ミーハイ(1765年 - 1833年)とともに、ハンガリー内外に存在するマジャール語文献の蒐集に努め始めた。フェレンツはハンガリーに住む多くの人々が読めるマジャール語文献の蒐集こそが、ハンガリーの文化水準を高め、過激な革命思想を抑止できると考えていた。こうした文献は1798年までに7,096点に達したという。1800年にフェレンツとティボルトは目録を作成して各方面に頒布して自己のコレクションの利用を促したものの、フェレンツ周辺の学者や文化人の間からもより積極的な公開を求める声が上がった。フェレンツもイギリスの図書館のようにより広く公開されるのが望ましいと考え、また一方でハイノーチィの一件のみそぎとなる行為を行う必要があったこと、更に自分の死後に再び分割相続が行われて蔵書が散逸して行方が分からなくなる恐れがあったこと、最後にフランス軍のハンガリー侵攻の可能性が現実味を帯びる中でより確実な書籍の保護手段が必要とされたこと、以上の観点から彼は蔵書の国家への寄贈の意思を明らかにすることになるのである。 1802年、フェレンツはヨーゼフ大公に対して図書館寄贈の申し出を行っている。その際、 コレクションは全ての民衆に公開されるためにあるものとする。ただし、当面は(既に目録が作成されている)図書のみの公開とし、骨董品などは目録が完成次第順じ公開するものとする。 コレクションの増加とその目録作成は今後もセーチェーニ家が担当し、1,000部の出版・頒布権を保持すること。また、著作権が大学図書館にある場合には、目録作成のためにそのデータを得る権利を持つこと。 図書館はヨーゼフ大公の管理下に置くものとする。王立大学図書館(ブダに移転した旧ナジソンバト大学)と同じ敷地に置くのは良いが、両者の蔵書は決して混合させないこと、万が一大学が移転する場合でも図書館はブダ・ペシュトのどちらかの市内に引き続き置かれること。 図書館に『(ハンガリー)国立』と『セーチェーニ』の名を含め、その設立を顕彰する銘盤を掲げること。 図書館は館長1名と館員2名で構成され、いずれもカトリック教徒であること。任免権はセーチェーニ家中の最高位者が持つこと。ただし、公職に誰も付いていない場合には総督会議が代行する。図書館費はセーチェーニ家が、職員の給与は大学基金が持つこと。国立図書館長は大学図書館長と同等の地位とすること。 の条件を提示した。大公はウィーンと相談して基本的にこれを受諾し、1802年7月2日にフランツ2世の名でフェレンツに創立者証書が届けられた(最終的な調整を終えて、図書館に対する正式な許可が出るのは11月25日であり、特許状はその翌日に出されている)。これが「国立セーチェーニ図書館」の創立とされている(ただし、実際の公開開始は翌年8月、開館式典は同12月であった)。 初代館長にはハンガリー人の館長をという世論の期待に反してドイツ人ではあったものの、図書館の経験が長いミラー・ヤーカブ・フェルディナンド(Miller Jakab Ferdinand 1749年 - 1823年)が任じられた。約束通り、午前と午後にそれぞれ3時間ずつ全ての人々に開放され、1804年には納本制度が整備された。途中、ナポレオン戦争によって疎開を余儀なくされたものの、図書館の円滑な開始を支えたのは、フェレンツが招いたミラーの豊富な知識によるところが大きい。フェレンツはその後もコレクションや目録の作成に尽している。 だが、晩年はより頑迷なカトリック信者となり、かつて親しかった人々だけでなく、父親の転向に憤りを感じる息子イシュトバーンとの確執・放蕩という形で親子仲も離れていった。このため、晩年は孤独と失意のうちに余生を送ったとされている。
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