国立アフリカ会社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/27 04:26 UTC 版)
「ジョージ・トーブマン・ゴールディ」の記事における「国立アフリカ会社」の解説
ジョージは中低地ニジェールをイギリス帝国に組込む考えを巡らした。そして20年後に実現させた。彼が選んだのはイギリス東インド会社をそっくり真似、帝国内で特許状を受けた会社による統治を復活させる手法だった。彼は1879年に連合アフリカ会社を設立し、イギリスの全てのニジェールへの商業的な関心を集めることに成功した。 1881年彼はグラッドストン内閣から特許状を得ようとして、様々な手段を講じた。国立アフリカ会社に改称して集めた資本金は25万ポンドからどんどん膨れ上がった。 当時フランスの交易家たちがレオン・ガンベタの援助を受けニジェール川下流の交易を取り仕切っていたため、領土的な権利を得ることは難しかった。しかし1884年にフランス人を買収していたジョージはベルリン会議にニジェール川に関する専門家として参加し、ニジェール川下流にイギリスの旗を立てることに成功した。そのうちにニジェールの海岸地帯はイギリスの保護国に組み込まれていった。ジョーゼフ・トムソン(スウェーデン語版)、デイヴィド・マッキントッシュ、D・W・サージェント、J・フリント、ウィリアム・ウォレス、E・デンジャーフィールドらの多くの代理人がジョージが提案した協定をニジェール川下流域及びハウサ諸国の首長たちとの間に結んだ。1886年7月ついに初代アバデアー男爵ヘンリー・ブルース(英語版)を総裁としてジョージを副総裁とすることで王立ニジェール会社(英語版)への特許状が認められた。1895年アバデアー卿が亡くなり、ゴールディが総裁となった。
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