営団地下鉄東西線列車横転事故とは? わかりやすく解説

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営団地下鉄東西線列車横転事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 23:16 UTC 版)

日本の鉄道事故 (1950年から1999年)」の記事における「営団地下鉄東西線列車横転事故」の解説

1978年昭和53年2月28日 2134分ごろ 営団地下鉄(現:東京メトロ東西線中野行き快速)(5000系 5818F 10両編成)が、葛西駅出発し当時西葛西駅未開業で、そのまま南砂町駅向けて走行であった。そして、荒川中川橋差し掛かった際に竜巻による突風受けて後部2両が西船橋方面行き線路上に横転、1両が脱線負傷者23人。 事故橋梁上で発生したが、車両ワーレントラス筐体内で横転したため、車両から転落する余部鉄橋列車転落事故のような最悪事態免れた当時営団事故防止のため、 ・風速毎秒15m 以上でブザー鳴動し注意運転をするよう呼びかけ ・20mで運転見合わせ ・25m以上で運転休止する よう指示することになっていた。 荒川中川橋から800 m地点風速計設置されていたが、大手町運輸司令所では警報ブザー鳴動しなかった。当時東京上空に、午後9時の気圧配置では、北緯40東経137付近に春一番もたらした爆弾低気圧かかっていた。東京上空不連続線1本がかかっており、、非常に不安定な気象状況だった。竜巻突風による被害は、午後9時20分ごろ、川崎市戸田突風により民家8戸が全壊60戸の屋根が飛ぶなど、幅は300 - 500 m範囲被害集中していた。川崎市から市川市東方までの30 km範囲時間25 - 30分間集中した竜巻突風時速80 - 100 km速さ東北東進んでいた。 当時5000系ステンレスカー(なお、当時一部マスコミ国鉄301系アルミ車と報道されたが、転覆した車両には営団5000系似た制御装置、運転装備があったので誤報)の車重問題となったが、その後の調査により、走行中の列車竜巻直撃する確率50 - 100年1回計算され不可抗力という結論になった。 さらに、この事故現場事故車両撤去妨げていた。現場荒川中川をまたぐのの中で車両横転しており、真下には当然ながら川が流れていた。そのような場所までクレーン車などの作業車が来るのは不可能なためであり、脱線転覆して復帰が困難とされる後部2両(5818、5252号車)については現地解体することに決定し翌年に2両を川崎重工代替新製することで欠けた分を補った。 なお、この際一部テレビ局ニュース速報で「地下鉄電車突風転覆」とテロップ表示され、この当時春日三球・照代地下鉄漫才大流行していたこともあり、地下鉄路線地上区間鉄橋があることを知らない人に混乱招いたということもあった。

※この「営団地下鉄東西線列車横転事故」の解説は、「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)」の解説の一部です。
「営団地下鉄東西線列車横転事故」を含む「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)」の記事については、「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)」の概要を参照ください。

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