営団地下鉄東西線列車横転事故
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「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)」の記事における「営団地下鉄東西線列車横転事故」の解説
1978年(昭和53年)2月28日 21時34分ごろ 営団地下鉄(現:東京メトロ)東西線の中野行き(快速)(5000系 5818F 10両編成)が、葛西駅を出発し、当時、西葛西駅は未開業で、そのまま南砂町駅へ向けて走行中であった。そして、荒川中川橋梁に差し掛かった際に竜巻による突風を受けて後部2両が西船橋方面行きの線路上に横転、1両が脱線。負傷者23人。 事故は橋梁上で発生したが、車両がワーレントラス橋の筐体内で横転したため、車両が橋から転落する余部鉄橋列車転落事故のような最悪の事態を免れた。 当時の営団は事故防止のため、 ・風速が毎秒15m 以上でブザーが鳴動し、注意運転をするよう呼びかけ ・20mで運転見合わせ ・25m以上で運転休止する よう指示することになっていた。 荒川中川橋梁から800 mの地点に風速計が設置されていたが、大手町運輸司令所では警報ブザーは鳴動しなかった。当時、東京上空に、午後9時の気圧配置では、北緯40度東経137度付近に春一番をもたらした爆弾低気圧がかかっていた。東京上空に不連続線1本がかかっており、、非常に不安定な気象状況だった。竜巻突風による被害は、午後9時20分ごろ、川崎市戸田で突風により民家8戸が全壊、60戸の屋根が飛ぶなど、幅は300 - 500 mの範囲に被害が集中していた。川崎市から市川市東方までの30 kmの範囲、時間は25 - 30分間に集中した。竜巻突風は時速80 - 100 kmの速さで東北東に進んでいた。 当時、5000系ステンレスカー(なお、当時一部のマスコミで国鉄301系アルミ車と報道されたが、転覆した車両には営団5000系に似た制御装置、運転装備があったので誤報)の車重が問題となったが、その後の調査により、走行中の列車を竜巻が直撃する確率は50 - 100年に1回と計算され、不可抗力という結論になった。 さらに、この事故現場が事故車両の撤去を妨げていた。現場は荒川と中川をまたぐの橋の中で車両が横転しており、真下には当然ながら川が流れていた。そのような場所までクレーン車などの作業車が来るのは不可能なためであり、脱線、転覆して復帰が困難とされる後部2両(5818、5252号車)については現地解体することに決定し、翌年に2両を川崎重工で代替新製することで欠けた分を補った。 なお、この際に一部テレビ局のニュース速報で「地下鉄電車が突風で転覆」とテロップが表示され、この当時、春日三球・照代の地下鉄漫才が大流行していたこともあり、地下鉄の路線に地上区間や鉄橋があることを知らない人に混乱を招いたということもあった。
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