和長の学術とは? わかりやすく解説

和長の学術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 06:45 UTC 版)

東坊城和長」の記事における「和長の学術」の解説

和長は10代で父と祖父相次いで失い、ついで自邸火事で失うなど、紀伝道家業とする家が口伝秘書の形で受け継いできた家学十分な形で受け継ぐことができなかった。そのため、学問料支給希望する款状先例有無確かめることが出来ないまま自薦文章作成することになり、後年当該文書収めた桂林遺芳抄』には「此の旧例は予一代誤り後の例となすべからざるなり」と注記して後学の者のために否定的な形で示している。しかも、東坊城家同じく紀伝道家業としてき菅原氏一族家々見ても、唐橋家五条家東坊城家同様に当主早世振るわず西坊城家後継者不在、残る高辻家当主氏長者でもあった高辻長直は和長から見れば「芸無才」の人物であった 。しかも和長が8歳時に始まった応仁の乱によって朝儀衰退し朝儀必要な有職故実紀伝道知識喪失危機にあったこうした状況の中で和長は菅原氏紀伝道これまでにない方法再興し存続させると言う課題取り組むことになった元来紀伝道とりわけ菅原氏人々の間では古来から受け継いできた伝統的な学説守り続けることが最も重要なことと考えられ、自らの手新たな説立てたり、著作書いたりすることには積極的ではなかった。和長もこの考え方重要視し例え紀伝儒(紀伝道に伝わる儒学)を正統視する立場から五山宋学などの新し学問に対して批判的な態度取っていた。だが、紀伝道における危機的状況において、和長は口伝東坊城家残されていた先祖菅原為長東坊城秀長ら)の日記著作その他の家々秘書などに残され内容整理分類して次代伝えられる形――書物の形での統合化というこれまでにない方法試みることになる。その活動は『蘂記』を著した23歳から『元号字抄』に加筆訂正加えた69歳まで実に50年近くに及ぶことになった折しも高辻長直から息子高辻章長五条為学教育依頼されることになる。高辻家五条家次代当主師弟関係結んだ和長はこの2人を自らの両腕とすることで、自らの試みをより現実近づけることになる。例えば、明応10年1501年)の辛酉革命にあたって改元を行うために必要な勘文記録失われていたことが判明すると、和長は章長・為学と共に先例調べ上げ、それでも不足する部分は「故実無し」とした上で推測などで補うことで出来るだけ故実復元することに努めている。その結果、彼が勧進し元号文亀」は反対派反論余地与えことなく認められた。和長の著作自身博覧強記才能や章長・為学と共に積み重ねてきた先例調査の上成り立ったのである。なお、和長は元号の選定のみならず足利将軍家摂関家などの有力公家元服改名などに際しても佳字を選考している。代表的な事例としては足利義澄足利義尹(再改名義稙も)・足利義晴足利義維近衛尚通一条房通鷹司忠冬などが知られている。 また、当時紀伝道人々文章家として、仏事などの行事用いられる願文諷誦文祭文などの制作依頼されることが多かったが、和長はそうした文章故実整理して四六作抄』(散逸)・『諷誦文故実抄』・『諸祭文故実抄』などを著している。

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