和霊騒動と改易の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 05:34 UTC 版)
宇和島藩は秀宗が入部するまで短期間で領主・藩主の交替が続いたために疲弊しており、桜田元親を侍大将、山家公頼を惣奉行として始まった藩政は前途多難だった。元和3年(1617年)頃に板島丸串城は宇和島城と、板島も宇和島と改名された。藩財政は非常に苦しく、秀宗は宇和島入部にあたって父の政宗から創業資金として黄金3万両(6万両説あり)を借用しており、それがこの頃に返済をめぐって藩論が紛糾することになった。山家は仙台藩と政宗の関係を重視し、政宗隠居料の名目で毎年3万石を返済にあてることにし、元和4年(1618年)には宇和島城下の北口に仙台藩の役所が置かれて寛永12年(1635年)まで18年間、3万石を返済にあてた。ただし政宗は寛永13年(1636年)の死去まで隠居していないため、これは事実上宇和島藩領を仙台藩に分知したようなものであり、また宇和島藩士の多くが減俸を余儀なくされることになり、この献策を行なった山家は桜田元親らに大いに恨まれた。また秀宗も借金返済問題をめぐり、山家と対立するようになった。 元和6年(1620年)1月、幕命により大坂城石垣工事を担当することになり、山家と桜田は奉行として大坂に赴いた。しかし、工事の進捗状況の報告に関して山家と桜田の間に齟齬があり、桜田の讒言で山家は宇和島に帰国し謹慎することになった。そして6月29日、秀宗の命令を受けた桜田一派により山家とその息子ら一族は殺害された。事件を知った政宗は激怒して秀宗を勘当し、さらに幕府に対して「秀宗は大虚けで到底10万石を治める器にあらず。召し上げてほしい」と幕府に願い出るほどだった。これに対しては、秀宗正室の兄である井伊直孝と土井利勝による政治工作により収拾されている。
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