君主制イラク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 11:02 UTC 版)
詳細は「イラク王国」を参照 サイクス・ピコ協定により、イラクはオスマン帝国から分割され、フランスとイギリスの勢力下に治められた。1920年11月11日、イラクは国連からイギリスに委任統治され、イギリス委任統治領イラクと呼ばれることになった。一方でイギリスは、1915年には、フサイン=マクマホン協定によってアラブの独立を認めていた。この協定とサイクス・ピコ協定とは矛盾しており、この矛盾は1921年3月21日のen:Cairo Conference (1921)において中東の混乱の一因として確定的なものになった。 イラクの政体はハーシム家の君主制となった。1921年8月23日に初代国王となったファイサル1世は、メッカのスンナ派ハーシム家の一員で、第一次世界大戦中はオスマン帝国に対抗してアラブ独立運動を指導してきた。イラク内には多様な民族・宗教の集団があり、特に北部のクルド人は独立を強く求めたが、その意見はイギリスの政策にほとんど反映されなかった。その結果、特に1920年から1922年にかけて多くの内乱が起きたが、イギリスによって鎮圧された。 1927年、キルクーク近郊で大規模な油田が発見されたことにより、イラク経済は改善された。ハーシム王家とスンナ派指導者は中央集権化を進め、1932年、イギリスの間接支配下ではあるが、イラク王国として正式に独立した。当時、クウェートはイギリスが統治していたが、ハーシム王家は「歴史的にクウェートはイラクに所属している」と主張した。 1930年代に入ると反英運動が高まりをみせ将校や王族にまで広がった。1941年、4名の軍事指導者がラシッド・アリ・アル=ガイラニを首相にすえ、完全な自治を求めてクーデターを起こした(en:Iraq coup (1941))が、利権を脅かされたイギリスは英印軍とヨルダンのアラブ軍戦力を指揮してイラクに侵攻し、再びハーシム王家の政権を確立した。 1945年、イラクは国際連合に加盟し、アラブ連盟の設立メンバーとなった。同じ年、ムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)が指導するクルド人が自治を求め反乱をおこしたが、失敗し、バルザーニの一党はソビエト連邦に逃れた。1948年、イラクなどアラブ5カ国は新しく建国されたイスラエルを承認せず、第一次中東戦争が勃発した。戦争は1949年5月まで続いたが、このときの停戦協定にイラクは署名していない。戦争によってイラク経済は悪化した。1955年1月、イラク・トルコ共同宣言を導き、共同宣言の原則、その実施詳細に関する正式な合意は2月に調印された。1956年、ソ連に対抗することを目的に中東条約機構(METO)が発足した。機構本部はバグダードに設置され、イラク、トルコ、イラン、パキスタン、アメリカ、イギリスが参加した。エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル大統領は、アラブにイギリスの勢力が残ることを嫌って機構に反対し、イラク君主の正当性にも懐疑を唱え始めた。1957年2月、反政府勢力は、統一国民戦線を結成し、独立党、愛国民主党、イラク共産党、初期のバアス党が参加した。この組織の目標は、政府に批判的で、民主主義、憲法上の自由、戦時法の廃止、バグダード条約からの脱退、「積極的な中立主義」の追求であった。
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