君主位奪還への試みと死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 10:08 UTC 版)
「ナスル (ナスル朝)」の記事における「君主位奪還への試みと死」の解説
ナスルはイスマーイールに敗れてグアディクスに移った後も君主の地位を要求し続けていた。そして自らを「グアディクスの王」と称し、親族や自分に仕える者を率いてスルターンに即位したイスマーイール1世に抵抗した。対するイスマーイール1世は1315年5月にグアディクスを包囲したものの、制圧には失敗し、45日後に撤退した。ナスルはペドロ・デ・カスティーリャとフアン・デ・カスティーリャ、さらには国王の祖母のマリア・デ・モリーナ(英語版)による執政の下で統治されていたカスティーリャに繰り返し支援を求めた。ペドロ・デ・カスティーリャはナスルと面会して支援することに同意したが、その一方でアラゴンのジャウマ2世に対してはこの機会に乗じてナスル朝を自ら征服するつもりであると語り、協力と引き換えにナスル朝の領土の6分の1をアラゴンに譲渡すると伝えた。一方のナスルは、1316年1月にジャウマ2世に対し、今回の差し迫った軍事作戦は自分がナスル朝のスルターンとして復帰するための行動であると何度も繰り返し伝えた。そしてペドロ・デ・カスティーリャに対しては、自分がスルターンの地位の奪還に成功した場合、支援の見返りとしてグアディクスを譲渡すると申し出た。 カスティーリャの軍事作戦の準備は1316年の春に始まった。5月8日にはウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーに率いられたナスル朝軍が、グアディクスで再び包囲を受けていたナスルへの物資の補給を試みるカスティーリャ軍を迎え撃った。戦闘はアリクン(英語版)の近郊で発生した。結果はナスルの支援を受けたペドロ・デ・カスティーリャの率いるカスティーリャ軍がナスル朝の軍隊を打ち破り、1500人の戦死者を出したウスマーンの部隊をグラナダへ撤退させた。その後、戦争は何度かの短期の休戦による中断を挟みつつも数年にわたって続いた。そして1319年6月25日にウスマーンが率いるナスル朝軍とペドロ・デ・カスティーリャが率いるカスティーリャ軍の間で起こったベガ・デ・グラナダの戦い(英語版)で戦争は最高潮に達した。戦いでペドロ・デ・カスティーリャは部隊を先導しようとしていた最中に襲撃されて打撃を受けたか、ナスル朝軍の騎兵に自ら突撃した際に揉み合いとなったことで落馬し、その後すぐに死亡した。そして共に参戦していたフアン・デ・カスティーリャも突然「死んでも生きてもいない」行動不能な状態に陥り、同じ日の夜間に死亡した。ナスル朝の軍隊は戦意を喪失したカスティーリャ軍を完全に打ち破った。カスティーリャは戦いでの敗北と2人の摂政の死によって指導者不在の状態になるとともに内部の混乱を招く結果に終わり、イスマーイール1世は優位な状況を手にした。王室の指導力の欠如のために国境地帯の都市の地域連合であるエルマンダード・ヘネラル・デ・アンダルシア(英語版)がナスル朝との交渉に動き、1320年6月18日にバエナ(英語版)においてエルマンダードとイスマーイール1世の間で8年間の停戦の合意に達した。この合意にはカスティーリャ人が他のムーア人の王を支援しないという条項が含まれていたため、カスティーリャによるナスルへの支援は実質的に終了した。 ナスルは1322年11月16日(ヒジュラ暦722年ズルカアダ月6日)に35歳で子孫を残すことなくグアディクスで死去し、王朝の創設者であるムハンマド1世から続くナスル朝の男系男子の王統は途絶えた。その後はイスマーイール1世の子孫がスルターンの地位を継承した。イスマーイール1世の父親であるアブー・サイード・ファラジュは王室の傍系であったが、ムハンマド1世の孫娘である母親のファーティマが王室の血統を子孫へ伝えた。ナスルには後継者がいなかったために当面は王朝の統一が図られ、イスマーイール1世は以前にナスルの支配下にあった領域を平和裡にナスル朝の下に再統合した。ナスルは当初グアディクスのアルカサバ(城塞)のモスクに埋葬されたが、一か月後に祖父のムハンマド1世と兄のムハンマド3世が葬られていたアルハンブラ宮殿のサビカの丘へ改葬された。
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