君主制から第二次世界大戦後まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 00:21 UTC 版)
「ティラナ」の記事における「君主制から第二次世界大戦後まで」の解説
1930年代から1940年代にかけては1920年代に立てられた都市計画が完成し、占領する軍隊と地元民との間に衝突が起こり共産主義勢力が現れている。1930年に今日のダシュモラト・エ・コンビット大通り(Dëshmorët e Kombit)の北側の部分が完成し、ゾグ1世大通りと名付けられた。一方、政府庁舎群や大通りの軸、王宮、行政庁舎、アルバニア国立銀行などはまだ建設中であった。後に都市計画はイタリアの著名な建築家ヴィットリオ・バッリオ・モルプルゴ(Vittorio Ballio Morpurgo)により行われた。ファシスト体制のイタリアとアルバニアとの間でティラナで条約が結ばれ、1939年にファシストの軍によりティラナは接収され傀儡政権が樹立した。その間、イタリアの建築家ゲラルド・ボジオ(Gherardo Bosio)は以前の計画をさらに練り上げ、新たに現在のマザー・テレサ広場になっている部分に新しい計画を導入することを頼んでいる。1940年代初期、メインの大通りの南側の部分や周辺の建物が完成しファシストにより名付けられた。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世のティラナ訪問中に企てられた地元の抵抗活動家による暗殺計画は失敗に終わっている。 1941年11月エンヴェル・ホッジャによりアルバニア労働党が設立された。ティラナは直ぐにアルバニアの共産主義の中心的な町となり地元市民を動員しイタリアのファシストや後のナチのドイツに抵抗し、その間にイデオロギー的なプロパガンダが広まった。1944年11月17日に町はアルバニアの共産主義勢力とナチスとの戦いの後に解放された。ナチスは最終的に共産主義勢力に戦いで敗北した。1944年から1991年にかけティラナでは建築様式としては大分衰えたいくぶん整然とした開発が行われた。大規模な社会主義様式の高層住宅群や工場の建設が始まり、スカンデルベグ広場は整備し直され多くの建物が取り壊された。ティラナのオールドバザールや正教会の大聖堂などは徹底的に破壊されソビエト様式の文化宮殿 (en) が建てられている。イタリア人が建てた行政庁舎は爆破され、その代わりにアルバニア国立歴史博物館が建てられ、アルバニア君主国時代のアルバニア議会が入っていた建物は子供の劇場に変えられた。加えて大通りの北側部分はヨシフ・スターリン通りと名前が付け替えられ、レーニンの像が都市の広場には直立した。自家用車の所有が禁止され公共交通機関は鉄道、自転車やトラック、バスが主要な手段と考えられた。アルバニアは鎖国主義を宣言しそれを優先した後にニキータ・フルシチョフや周恩来など著名な共産主義諸国の人物が訪れている。1985年にティラナではエンヴェル・ホッジャ死去に伴い葬儀が行われた。ホッジャの霊廟としてピラミッドの形をしたエンヴェル・ホッジャ博物館(英語版)も建設された。その数年後、アルバニアが無神論を宣言してから最初の宗教的な人物としてマザー・テレサが訪問している。テレサは地方の墓地で眠る両親のもとを訪れた。この頃になるとティラナ大学の学生による政治的な自由化に対する運動が高まった。
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