バグダード条約とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > バグダード条約の意味・解説 

バグダード‐じょうやく〔‐デウヤク〕【バグダード条約】

読み方:ばぐだーどじょうやく

1955年11月、トルコ・イラク・イラン・パキスタン・イギリスの5か国がイラクバグダードバグダッド)で調印した集団防衛条約。これによって中東条約機構METO)が結成されたが、1959年イラク脱退し中央条約機構CENTO)に改組


中央条約機構

(バグダード条約 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/15 01:09 UTC 版)

発足時のMETO加盟国
CENTOの旗

中央条約機構(ちゅうおうじょやくきこう、: Central Treaty OrganizationCENTO)は、1979年まで存在した集団安全保障機構。ソビエト連邦に対抗することを目的とした反共軍事同盟であった。

沿革

中東条約機構

1955年2月24日、トルコイラク王国との間で2国間の相互防衛条約(バグダード条約)が締結[1]。その後、同年11月25日に開催されたバグダート条約閣僚会議の結果、イギリスパキスタンイラン帝国が条約に参加し、中東条約機構(ちゅうとうじょうやくきこう、: Middle East Treaty OrganizationMETO、バグダード条約機構とも)が発足[2]。本部をイラクのバグダードに置いた。この他にアメリカ合衆国がオブザーバー参加している。アメリカは、ソ連に対抗するために中東諸国を自陣営に取り込む必要があり、この機構には軍事・経済的援助を行っている。

中央条約機構

1958年7月14日、イラクにてアブドルカリーム・カーシムらによる7月14日革命が勃発したため、 1959年3月24日イラク共和国(カーシム政権)が中東条約機構より脱退。これを受けて、本部をトルコのアンカラに移転し、中央条約機構と改称した。

あまり有効に機能したわけではなく、同地域で行われた印パ戦争中東戦争にはまったく関与しなかった。キプロス紛争においては軍事侵攻したトルコとキプロス国内のアクロティリおよびデケリアを統治しているイギリスが加盟国同士にもかかわらず同機構が紛争解決の役割を果たすことが出来なかった。1979年のイラン革命によるイラン帝国の崩壊を契機に解体された。

脚注

  1. ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、66頁。ISBN 9784309225043 
  2. ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』、71頁。 

関連項目



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「バグダード条約」の関連用語

バグダード条約のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



バグダード条約のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの中央条約機構 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS