委任統治領イラク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:22 UTC 版)
「アングロ=イラク戦争」の記事における「委任統治領イラク」の解説
1932年の独立まで、イラクは国際連盟のイギリス委任統治領イラクとなっていた。独立前の1930年、イギリスは、イラク国内でイギリス軍の軍事通行権、軍事基地の使用および建設の権利を認めさせる条約を、イラク国内での反感を買いながら締結したことがあった。 独立後の1937年には、すでにイラク国内から多くのイギリス軍が撤退し、イラクは国内の安全を確保できる軍事力を持つようになった。この頃もイギリス空軍(RAF)は基地の利用を許可されていたが、その権限も、バスラ近郊のシャイバ基地、ファルージャとラマディの間にあるハバニヤ基地(イラクのイギリス空軍将校のH・G・スマートの指揮下)の二つに限られていた。とはいえ、この基地は英領エジプトから英領インドの空路にとっても、イギリスの石油権益にも重要な存在だった。(ハバニヤは、バグダッドの東にある) 第二次世界大戦の開戦時、ハバニヤ基地は、イギリスの第一装甲車中隊と地元の徴兵部隊の訓練基地となった。 1939年9月、ポーランド侵攻を受けてイラク政府はナチス・ドイツとの国交を断絶したが、翌年3月、これに反発する国粋主義者のラシッド・アリが首相となった。アリは公式には枢軸国を支持していないように見せるために、密かにドイツと連絡を取っていたが、6月に枢軸国として第二次世界大戦に参戦したファシストのイタリア王国とは国交を続け、イタリア軍を反英プロパガンダに利用し、イギリス領パレスチナから亡命した大ムフティーのアミーン・フセイニもこの活動を支援した。しかし、結果的に起こった混乱と内戦の可能性が原因で、1941年1月に、アリは首相を辞任し、タハ・アル・ハシミ(英語版)が後任となった。
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