叙位の儀礼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:17 UTC 版)
恒例の手続きとしての叙位は毎年正月に行われた。桓武天皇の頃より、1月7日の白馬節会の饗宴に際して新しい位記が与えられる慣例が成立し、続いて8日には宮人に対する女叙位が実施された。 1月7日に叙位が行われる場合、5日か6日に天皇の御前で叙位の是非を決める「叙位議」を開催する。 平安時代中期以降の儀礼の手順としては、叙位議の当日はまず、大臣以下が議所に着座して勧盃が行われる。続いて蔵人が天皇のお召の命令を伝えると、上卿(大臣もしくは大納言)は外記を召して筥(はこ)を持参させる。筥の中には外記(一部は蔵人)より五位以上の官人の名簿である歴名帳、現職の官人の名簿である補任帳、官司から年労加階の候補者を記した十年労帳、叙位者を推挙する外記勘文や、昇進希望者自身もしくは他薦意見として出される申文などが納められており、それらはまとめて筥文(はこぶみ)と呼ばれる。続いて大臣以下が殿上に昇り、その際一部の公卿が筥文を持って登り、大臣の座の西辺に置く。続いて、天皇が出御して御前儀の形式で叙位議が開催される。 まず十年労帳を皮切りに筥文の確認が行われ、その内容を参考にして叙位の是非を定めていく(後述のように成選が叙位議よりも前に行われていた時代には、当然成選短冊などの成選関連文書が最初に確認されていたと考えられている)。決定はまず、従五位下を授ける叙爵について審議(氏爵・巡爵・年労叙爵・院宮年爵)が行われ、その後従五位下以上の貴族に対する加階(年労加階・院宮加階)について審議が行われ、天皇が裁許した決定事項の執筆を担当する大臣が続紙に記して続文(叙位簿)を作成する。全ての審議が終わると、執筆の大臣が続文の末尾に年月日を記して天皇の奏覧を経た後、上卿に下される。退下後、議所もしくは陣座にて上卿が内記に命じて位記を作成させ、上卿が出来上がった位記に続文に基づいて叙位者の姓名を記していく(入眼)。出来あがった位記は天皇の奏覧を経て御璽を捺印した上で覆奏される(請印)。また、叙位者を召すための下名(おりな)を作成して式部省・兵部省に送付される。 院政期以後になると、治天の君や摂関など宮廷内の各実力者による事前の合意によって作成された小折紙と呼ばれる一種のシナリオが作成され、それに基づいて叙位議が行われるようになる(叙位議の最後の段階で摂関が執筆の大臣・公卿に小折紙を渡し、執筆は秘かにそれを書き写して続文を作成した。これはあくまでも「小折紙」は表沙汰にしてはならない文書であったからである)。 7日には白馬節会のために参内する貴族・官人のうち、叙位者を召しだして位記を給う位記召給の議が行われる。叙位を受けた者は拝舞して奏慶を行い、続いて院宮などの有力者に奏慶した。これは、饗宴の場で大勢の人々の前で叙爵・加階の栄誉を受けると言う晴れの舞台を設定する意味があった。 なお、奏授の場合は予め太政官が結階案を天皇に奏上し、判授は太政官の審議にて決定される。まず、前年の10月1日から3日に出された考選文を元に中務省にて考選目録が作成され、1月3日に叙位議に先だって考選目録読申が行われ審議が行われる。翌日には大臣が成選人(進階対象者)に引見する列見が行われ、これを元に進階者を定めた成選短冊とその者に予定された新しい位階の予定が記された擬階奏文を天皇に奏上されて裁可を受ける奏成選短冊が行われ、これを受けて位記が作成されて対象者が召給された。ところが、天長年間(824 - 34年)に考選目録読申が2月10日に移動され、それに伴い奏成選短冊は4月7日、位記の召給は同15日となる。更に仁寿年間(851 - 54年)には奏成選短冊への天皇の出御も行われなくなり、天皇が奏授の叙位に関わる事はなくなったのである(判授は、元々天皇が関与しない)。 なお、正月8日の女叙位は次第に衰退して隔年化したり、同時に男性官人の追加の叙位が行われたりするようになった。
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