友人と恋人たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 02:46 UTC 版)
シャネルは戦間期の間、政治的・文化的に大きな影響を残す人々と様々にかかわった。この頃に彼女と関係をもった恋人や友人の中には彼らの死まで交友が続き彼女に影響を与え続けた人物もいる。彼女がパリに購入した自宅には友人たちが出入りし、その中にはディアギレフの他、当時パリにいたパブロ・ピカソやジャン・コクトー、シャネルの最も親しい友人となるミシア・セール、シャネルの恋人となり行動・精神面で大きな影響を残す詩人ピエール・ルヴェルディ、そして同じく深い恋愛関係を築いたイラストレーターのポール・イリーブ(英語版)らがいた。また、彼女はイギリスの貴族との関係を通じてイギリスの上流階級と交友を持つようになった。 ミシア・セールは長くシャネルの友人であり続けた人物の1人である。彼女はパリのボヘミアン・ブルジョワで、スペインの画家ホセ・マリア・セール(英語版)の妻であった。シャネルとセールは似た者同士で惹かれ合ったと言われる。当時のミシアの目にシャネルがどのように映っていたのかについて、伝記作家らは「シャネルの天才、気前の良さ、破壊的なウィットを伴う激情、痛烈な毒舌、熱狂的な破壊性は誰をも惹きつけると同時に愕然とさせた」と評している:34。シャネルとミシアは2人とも修道院で学んでいた経験があり、共通の興味と信頼を保ち続けた。彼女たちはまた、薬物の使用も共有していた。1935年までにシャネルは薬物を利用する習慣を持つようになっており、人生の終わりに至るまで日常的にモルヒネを注射していた:5:80–81。チャンドラー・バール(英語版)の『匂いの帝王(The Emperor of Scent)』によれば、ルカ・トゥリン(英語版)は著作の中で、シャネルは「パリで最も素晴らしいコカインパーティーを催したのでココと呼ばれた」という根拠のない噂を広めた。 作家のコレットはシャネルと同じ社会的なサークルに加っており、随筆集『牢獄と天国(Prisons et Paradis)』(1932年)の中でアトリエで働いているシャネルについて次のような奇態な説明を残している。「全ての人間の顔がある動物に似るとするならば、マドモアゼル・シャネルの顔は小さな黒い雄牛である。彼女のカーリーな黒髪は仔牛のそれであり、彼女の額から眉の上を通って落ち、彼女の頭の上をあらゆる動きで踊っている:248。」 シャネルはミシアを通じて知り合った詩人ピエール・ルヴェルディと、1919年から交際を始めた:244。ルヴェルディとの交際はシャネルにとって思い出深いものであったらしく、作家エドモンド・シャルル・ルーは晩年に虚言癖が強くでるようになった頃のシャネルでも素直にその名前を出すことのできた人物として、アーサー・カペルとならんでルヴェルディを挙げている:48。定期刊行物に掲載された、シャネルのものとされる伝説的な名言はルヴェルディの助言の下で、共同で作られたものとされている。 シャネルの書簡を検討すると、彼女が書いた手紙の不器用さと、シャネルのものとされる名言の作者の才能の間に完全な矛盾があることが明らかになる...ルヴェルディは彼女が自分の「職業(メティエ)」について書いたわずか数篇のアフォリズムを修正し、さらにこの「シャネリズム(Chanelisms)」(シャネル名言集)に、人生や美的感覚、または魅力や愛などについて、より一般的な考察を加えたのである:328。 しかし、ルヴェルディはカトリックに帰依し信仰の道に傾斜するに従いシャネルとの関係も断ち始めた:62。ルヴェルディが1926年に北西部サルト県のソレムに隠棲した後も両者は連絡を維持したが、重要な関係は終わった。 後述するイギリス貴族との交際が終わった1930年代には、シャネルはイラストレーター・デザイナーのポール・イリーブ(英語版)と交際するようになった。二人の関係は深く、1935年にイリーブが急死するまで続いた。イリーブは強烈な国粋主義・反共和主義者であり、風刺週刊新聞の『ル・テモワン(フランス語版)(証人)』を発行していた。シャネルはイリーブに惚れ込み、イリーブの活動に資金提供を行った。友人のミシア・セールは当時のシャネルについて「ココが生まれて初めて人を愛している」と発言している:143。
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